からくりサーカスオリジナルストーリー
バートリーロイ

 空軍フィス」

 

 

 

「タランダって……」

 白髪でくすみかけた金髪(ブロンド)をした中年の女性秘書は、卓上の予定表から分厚い丸いメガネの目を上げて、興味深げに目の前の少女を見やった。「あなた、タランダ=リーゼロッテ=タチバナさん?」

「は……はい」やや口ごもりながら、リーゼが応えた。

 清楚な印象の少女だった。後ろで束ねたロングの黒髪と、幼さをいまだ残した顔立ちと見れば、東洋系だとすぐにわかる。

 グリーンのストライプ柄のワンピースを着た彼女はあまりにあどけなく、その場に……合衆国空軍基地のオフィスには似つかわしくないような印象を与えていた。

「あらぁ……」だが、そんなことに気づかぬように、秘書の顔に笑みがうかんだ。「テレビ、見たわよ。ニッポンでトラをやっつけたって。まぁ……実物の方がずっとかわいいじゃないの」

「あ、ありがとうございます……」

 リーゼの顔が、少しだけ赤くなった。

 この、子供と見まごう十四歳の彼女が、実はグレートロングサーカスに籍を置く一流の猛獣使いであり、伝説のライオン・ドラムとともに日本に渡って姉の仇であるアムールトラ・ビーストを倒したのである。秘書は、昨晩ブラウン管で見た彼女と、目の前にいる実物の彼女の姿とを重ね合わせていた。

「やっぱりねえ……電話もらったときからずっと、もしかしたら……と思ってたのよ」照れたリーゼに構わぬように、彼女は話し続けた。

「だけどまあ、こんな素敵なお嬢ちゃんが来るなんて、ボスも隅におけないわね……あなた、ボスの知り合いなのよね?」

「はい、おじさん……いえ、准将閣下は……両親の友人でして」

「そうなの、ご両親のね……。やっぱり、サーカスの芸人さんなの?……あっ」

 言いかけて、そこで彼女は気がついた。取り繕うように微笑むと、卓上におかれたインターホンの受話器を手にした。

「……あら、ごめんなさい。ボスに面会だったのよね……待ってて。取り次ぐから」

 リーゼは、すこしキョトンとしながら、秘書がインターホンを操作するのを見守っていた。

 

 

 

 

 アルバート=リーロイ空軍准将のオフィスは、イリノイ州×××航空基地司令の地位にふさわしい広さと、それなりの豪奢ぶりとを兼ね備えていた。

 部屋に置かれているのは作りつけの本棚に応接セットと、デスク、それからキャビネット。

 それらを取り囲んだ壁面に飾られた幾多の写真や部隊章、そして額に飾られる表彰状は、主のかわりにその戦歴を物語っているようだ。

 部屋の奥面、デスクの向こう側にある二重窓からは、基地の滑走路や格納庫が一望できる。

 その部屋の中央に置かれた応接セット、合皮製でできた大きなソファに、リーゼは居心地悪そうに掛けていた。

「紅茶でいいかな……おちびちゃん?」

 アルバート=リーロイは、半ばハゲあがった頭をさすりながら訊ねた。

 勲章やら徽章をいっぱいつけた軍服が、太鼓腹をしまいきれないようで窮屈に見えた。

「おっと」彼はしまったという顔をして、口髭をたくわえた唇に手をあてた。「おちびちゃんは失礼だったかな……ミス・タランダ=タチバナ」

「あ……かまいません、閣下。昔どおりで」

「そうかい、ありがとう……それじゃ、私のことも『おじさん』でいいからね。いまさらしゃちほこばることもないよ」

 童顔、といってもよい。

 年の割にはつややかな赤ら顔に大きな鼻、そして大きな澄んだ青い瞳。……リーゼの答えに顔をほころばせると彼は、卓上の受話器をとりあげた。

「ああ、キミ……コーヒーとドーナツを……」

 さっきの秘書が相手だろうか。

 しばらく、耳を傾けている。

 受話器の向こうの返答に、彼は言葉をつまらせた。「……うっ、わかってるよ。だけど、1個くらいだったら……」

 ポケットからハンカチを取り出し、額を拭う。

「……わかったよ! じゃあ、紅茶とドーナツを……」

 汗っかきなところは、昔の『アルバートおじさん』のままだ。リーゼは思わず微笑んだ。

「……そ、そんなに言わなくても。冗談なんだから……はいはい、うん……紅茶だけでいいから! 頼んだよ」

 彼が話している間、リーゼは自分がいるオフィスをあらためて見回した。

 壁に飾られている十数枚もの写真には、パイロット姿のものや軍服、あるいは平服姿の彼が写っている。

 それらすべてが彼……アルバート=リーロイ米空軍准将、もとベトナム戦争のパイロットだったという、彼の経歴を物語っていた。

 ジェット戦闘機をバックに写る若き彼は精悍で、それなりに整った顔立ちをしている(時の流れが、彼から頭髪を奪い、かわりに皮下脂肪を与えたのだろうか)。

「あ……」

 リーゼの視線が、ある一枚の写真に留まった。

 その古い写真には、彼と、一人の女性と、もう一人の男性が写っていた。

 サーカスのテントをバックにしたその写真は……、

「……お母さん?」

 まちがいない、母と……父である。

「太っちゃっただろ? おじさんも」詳しく見ようとしたリーゼに、彼が語りかけた。「あまり見比べられるのもなんだか、恥ずかしいな……」

 

 

 

 

「医者に、コーヒーとか甘いモノとかを止められているんだよ。あのメガネザル、それを知ってるから……」

 受話器を置いた彼は、そのままリーゼの対面のソファに腰をおろした。

「ちょっとくらいいいのに……ねえ」

 太った体がクッションに深く沈むと、いっそう突き出た腹が、軍服のボタンを圧迫する。

「さあて、おちびちゃん……テレビは見たよ。ビーストを倒したそうじゃないか……おめでとう」

「ありがとうございます。閣……おじさんのおかげです」

 そこで立ち上がったリーゼは、深々と頭を下げた。「おじさんが飛行機を手配してくれたから、私とドラムは日本に……本当に、ありがとうございました」

 少し間をおいて、彼は応えた。「……なあに、たいしたことはないよ」

「ちょうどナリタ行きの輸送機があったから、ついでに乗っけただけだよ……そうだ、陸路の手配は間にあったかい?」

「はい……トラックを手配してもらえましたから」ソファに腰かけたリーゼは、そこで口ごもった。「……それで、あの」

「ん……なんだい?」

 そのとき。

「失礼します」女性秘書が現れた。「紅茶をお持ちしました。ボス」

「はいはい、紅茶……ね。コーヒーじゃなくて、ね」残念そうな顔をして、彼は目の前に置かれるカップを見ていた。

「先生から厳命されていますので」秘書はそっけなく応えた。「本当はミルクがベストですのよ、ボス。それを考えたら……」

「はいはい、わかってますよ! 美しくて心優しいキミの気遣いには、いつもいつも感謝してるんだよ、うんうん」

「あ〜ら……感謝はお言葉より、給与明細でお願いしますわ。ボス」

「う……まあ、それはそれとして……それにしても、飲み物だけなのもさみしいな。何かこう……丸くて、穴があいてて、甘いものが欲しいなぁ……」

「トローチがご入り用でしたら、医務室に頼んでおきますが」

「ミセス・フォスター……ご亭主も大変だろう?」

「あら、どうしてお判りになったんですか?」

 座ったままリーゼは、二人のやりとりを見ていた。

「それじゃ、お嬢ちゃん……あとでね」そんな彼女に秘書は微笑みを浮かべて、そして出ていった。「失礼します」

 ドアが閉まった。

「…………まったく、恩着せがましく抜かしおって……」

 准将はブツブツ言いながら、それでもカップを手に取り、口にした。「うむ、ミルクよりマシか……」

 つられて、リーゼも紅茶を飲む。

 2つのカップの紅茶が、オフィスに沈黙を呼んだ。

「……何か、言いかけてようだな。トラックがどうしたのかい?」

 

 

 

 

「あ……」

 だしぬけに問いかけられ、リーゼはカップを置いた。

 慌てたせいで、受け皿にぶつかって大きな音がした……思わず、息を呑む。

「そのトラックなんですが……買い上げたんです」そして彼女は、突然頭を下げた。「ごめんなさい、勝手なことをして……」

「へえ……それはまた、どうして?」リーゼの態度に戸惑いながら、准将は訊ねた。

「あ、あの……日本で、助けてくれた人がいて、それで……」

「……なるほど。それは、つまり……お礼ということかな?」

「は、はい……」

 小さくうなづくリーゼに、にこやかに彼は応えた。「まあそれは、私が口をはさむことじゃないよ」

 それから准将は、壁に掲げられた一枚の写真に目をやり、そして訊いた。

「……ところで、お母さんには会ったかい?」

 リーゼが目をやると、彼の目は例の……彼女の母と父が写された写真にむけられていた。

 まん中に立つ、舞台衣裳の若き日の母の姿がひときわめだった印象を与える。

 日本人である父と、飛行服姿の准将とが、まるで彼女にかしづく二人の騎士のように見えた。

「はい。アメリカに戻って、すぐ報告に」

 リーゼはうなづいた。

 アメリカには、身辺整理に戻ってきたのだ。

 心労で倒れ、郊外で療養する母の姿を彼女は思い浮かべていた。

「……どうだったかい? 具合は」

 身を乗り出した准将の前屈みになった腹が、ボタンに悲鳴をあげさせていた。

 その様子を気にしながら、リーゼは応えた。「はい……だんだん快方に向かうっているってお医者さんが」

「そうか……それはよかった!」彼はほっとしたように腰かけ直した。「おちびちゃんが……おっと、これまた失礼……無事帰ってきて、喜んでたろう?」

 紅茶を片手にした准将に、彼女は再び言葉もなくうなずいてみせた。

 それから、どちらからともなく二人はもう一度、壁の写真に目をやった。

 母と、父と、准将。この三人がどのように出会ったのか、リーゼは知らない。

 ただ、幼い頃から両親の大事な友人として接してきた記憶だけが残っていた。

「本当は……ね」

 短い沈黙をおいて、まるで独り言のように、准将はつぶやいた。「後悔していたんだよ」

「えっ……?」意外な言葉に、リーゼが顔を向けた。

「キミを……たった一人で日本に送ってしまったことをね」カップに目を落としたままで、彼はリーゼの反応とは無関係に言葉を続けた。「もし……もしも、万一のことがあったら……お母さんに何て言えばいいのだろうか、ってね」

「そんな……そんなことは!」

「うんうん、わかっているよ」彼はうなずき、それから紅茶をもう一口すすった。

「だけど、今はよかったと思ってるんだから……」

 目を上げた准将は、結んだ唇をにこやかにつり上げ、続けた。「いい顔になって、戻ってきたね」

「えっ……」

「さっきから……いや、君がこのオフィスに入ってきたときから、そう思っていたんだよ」口髭をさすりながら、准将は言った。「お姉ちゃん、ヘレン姉さんの後ろに隠れていたおちびちゃんとは、まるで別人のようだねって」

「えっ……そうですか、いえ……そんなことは……」

「君があの時、私の家に電話してこなければ……」彼はそのまま、ティーカップを手のひらで弄ぶように揺らしていた。

 しばしの間をおいてカップをテーブルに置き、そして言った。

「こんないい顔したおちびちゃん……しまった、ごめんね……タランダ=リーゼロッテ=タチバナを見ることも出来なかったかもしれないからね」

 

 

 

 

 応接テーブルの紅茶が、小さく震えだした。

 窓の外から唸るような轟音が響き、思わずリーゼが窓に目をやった。

 准将は振り返らなかった。

 音でわかる。基地の滑走路から、大型の輸送機が離陸したのだ。

 あの時と同じ飛行機だ。基地所属でも最大の、長距離ジェット輸送機。

「あれから……二週間もたってないんだよな」リーゼにも聞こえない小さな声で、彼はつぶやいた。

 

《おじさん! ビーストが、ビーストが……私、どうしたら……》

 あの夜……自宅の電話を取るなり、リーゼの声が准将の耳に飛び込んできた。

《お……おちびちゃんかい? どうしたんだい》

 

「それで、これからどうするんだい? また、サーカスに戻ってくれるのかな?」

 准将が訊ねた。

 姉の死以来、彼女がスランプに陥っていたことは知っている。

「はい」リーゼはただ一言、うなずいた。

「……それはよかった」彼は、笑ってみせた。「お母さんも、お客さんも喜ぶだろうよ」

 

《ニュースで、テレビのニュースで……日本の、また大勢の人が……私、私……》

《……とにかく、とにかく落ち着いて。落ち着いて話してごらん……!》

 混乱し、感情的になった彼女の言葉に、准将は辛抱強く耳を傾けた。

 

「グレートロングの次の公演、必ず行くからね……確か、ナッシュヴィルだったっけ?」

「…………」リーゼは沈黙した。

 

《………………》

 事情を理解するなり、彼は黙り込んだ。

 口髭に手をやる。

《お……おじ、さん?》長い沈黙に、リーゼが静かに訊ねかける。

 

「そうだ、ドラムは元気かい? ビースト退治の英雄は」

 うつむくリーゼに気づき、彼は話題を変えた。

「はい」彼女は

「あんな年寄りなのに、偉いなドラムも……おじさんも負けてられないね。ははは」

 

《ドラムは》

 静かな声だったが、はっきりした口調で准将は言った。《ドラムはいるのかい?》

《は、はい……》

《すぐ、連れてきなさい。基地のメインゲートはわかるね?》

《はい》

《着いたらまた連絡しなさい……迎えに行くからね》

 

 リーゼは、それきり口を開かなかった。

 何かを言いあぐねているようだった。

 

《おじさんっ!》

 彼女が基地にたどりついたのは、夜遅くになってからだった。

 ゲートで名を告げると、准将はすぐに姿をあらわした。

《二番滑走路に行きなさい。ナリタ向けの輸送機が出発する》開口一声、そう告げた。《向こうに着くまでに、陸路の手配もしておこう》

《おじさん、私……!》

《いいんだよ、何も……》

 手を伸ばし、彼は、リーゼの頬に触れた。《さあ、行きなさい》

 

「私…………ごめんなさいっ、おじさん!」

 エンジン音が大きく轟いた。

 それにまぎらすように、リーゼは小さく、つぶやいた。「私、日本に行くんです!」

 

 

 

 

 輸送機が離陸した。爆音が、しだいに遠ざかる。

「え……?」

 聞こえたか、聞こえなかったのか……准将が口を開いた。

「あの、私……」ためらいがちに、リーゼがくり返す。「日本のサーカスに入ろうかと……」

「それじゃ……」少し間をおいて、彼はひと呼吸した。「グレートロングには戻らないのかい?」

「……すみません」

「お母さんは、なんと?」

「許してくれました」

「……なるほど。それは……残念だな」

 だが、言葉と裏腹に、准将は微笑んでみせた。「でも……外国の大きなサーカスで腕をふるうのも、悪くないね。日本に行ったら、必ず見に行くからね」

 大きなサーカス、という言葉に、かすかにリーゼの眉が動く。

 それに気づいたかどうか、准将は言葉を続けた。「それにしても、思い切った決断だね」

「すいません……」

「謝ることはないさ」うつむきかけたリーゼに、彼は手を振って応えた。「君の選んだ道だろう?」

「すいま……あっ」また謝りかけ、彼女は口をつぐんだ。

「ははは……」准将は笑い、さらに続けた。

「どうだい……その、日本のサーカスの人達は、優しくしてくれるかい?」

「はいっ、それはもう……皆さん、とてもいい人です」

 応えるリーゼの瞳をのぞき込むようにして、彼女はリーゼを見つめていた。

 彼女のその表情に安心したように、そのまま口を開いた。

「それは良かった。じゃあ、もしかして……もうボーイフレンドもできたんじゃない?」

「いえっ、あの……その……」

「あははは、赤くなってるよ」

「えっ……!」

「これは一度、紹介してもらわんとな。うん」からかうように大仰に、彼はうなずいた。

 そのとき、

 デスクに置かれたインターホンが、乾いたベルの音を鳴らした。

「はい?」受話器を取った彼の顔が、少し暗くなったようにリーゼには見えた。「ああ……わかった」

 何か小さく言いながら、准将は受話器を戻した。

「ああ……名残惜しいけど、次の客が来てしまったよ」

「そうですか……残念です。おじさん……」言われてリーゼは、ティーカップをテーブルに置き、席を立った。「おじさん……色々と、ありがとうございました」

「本当にごめんね……こっちを発つ前に、食事くらいできるかな?」

「はい♪」

 彼女の返事に安心したように、准将は皿ごとカップを手にした。「そうか……じゃあ、あとで連絡するよ」

 

 ドアが閉じられた。

「……本当に、立派になったね。おちびちゃん」

 ティーカップをひとまず自分のデスクに移した彼は、壁の写真に目をやった。

「時は過ぎゆくものだ、なあ……タチバナよ」

 

 

 

 

 オフィスを出たリーゼと入れ違いに、ひとりの男がドアに消えていった。

「ねーえ、お嬢ちゃん」

 そのまま帰ろうとしたリーゼを、デスクにいた女性秘書が呼び止めた。

「あ……はい?」

「ボスが一番喜ぶものって、何だと思う?」席を立ち、彼女が訊ねる。

「喜ぶものって……プレゼントですか? 誕生日の」

「えっ、ええ。まあ……そんなものね」

「ええと……」ちょっと考えて、リーゼが応えた。「チョコレート・ドーナツとか……?」

「うーん、ドーナツかぁ……確かに喜ぶでしょうね」秘書はちょっと下を向き、メガネ越しにリーゼを見た。「けど、甘いものはねぇ……何か他にない?」

「ええと……」他にと……リーゼも考え込んでしまう。

「難しいわよね……なんなのかしらねぇ、ボスも……」

 独り言のように、秘書が言った。「あのトシになるまで結婚もせず、ひたすらドーナツばかり食べてきたみたいでね……」

 言いかけたそこでリーゼの視線に気づき、あわてて首を振った。「あっ、冗談よ……あたしには勿体ないくらいのボスなんだから」

 そんな彼女の様子に笑みを浮かべ、リーゼは考えた。

「そうですね……ええと……あ」と、小さく声を上げ、手をたたいた。

「何? 何かあるの?」身を乗り出して、秘書が訊ねる。

「釣りが好きだったはずですよ。釣り道具なんかどうでしょう?」

「釣りかあ……なるほど」秘書がうなずいた。「でもあたし、よくわかんないからな……」

「確か前に、立派なグラスファイバー竿が欲しいって言ったことがあります。ショップの人とかに相談すればどうでしょう?」

「そう……それはいいわね」分厚いメガネの底、青い瞳をくるめかせて彼女が言った。「ありがとうね。良かったわぁ、やっぱり訊いて見るもんね♪」

「いえ、どういたしまして」リーゼが応えた。

「ありがと、本当に助かったわ」満面に笑みを浮かべ、秘書は言葉を続けた。

「やっぱりこういうのは、身近な人に尋ねるのが一番よね。そうか、釣り竿ねえ……毎日が暇になるんだから、ちょうどいいプレゼントになりそうだわ」

「暇……毎日が?」

 リーゼが訊ねた。「それ、どういうことです?」

「……あ、ひとりごとよ。何でもないの」秘書が手を振って否定する。

 ……その、ガラス越しに目が泳ぐのがわかる。

「何か知ってるんですね。教えてください!」

「口止めされているの……ごめんなさい、だから……」

「口止め?」

「あわわ」思わず、女性秘書は自分の口を押さえた。「……ううんっ、違うの……違うのよ! 本当に何でもないから!」

「お願いです! おじさんに何かあったんですか」

 リーゼは、すがりつくように秘書に近づいた。

「こたえてください、ねえ!」

 

 

 

 

「おじさん!」

 ソファにいた白衣姿の中年の客は、いきなり飛び込んだリーゼに、ギョッとした顔で振りかえった。

「どうしたんだい……」突然戻ってきたリーゼを見て、准将は腰を浮かせた。

「おじさん……軍隊を、……」言いかけて、彼女は声をつまらせた。

 彼女を追ってきた女性秘書が、後ろから腕をつかんだ。「ちょっと……落ち着いてよ、お嬢ちゃん」

「軍隊を……辞めさせられるんですか?」

「え……あ……」立ち上がった准将の口元が、わずかにゆがんでいるのがわかった。

「それって……私のせいなんですね?」リーゼは、腕を引かれながらも、訴えるように話し続けた。「私が……むりに飛行機に乗せてもらったから……」

 彼女は思い出していた。

 いや、

 思い出したと言うよりもむしろ、ずっと心の片隅にあった疑問が氷解したというべきか。

 定期輸送便のはずの飛行機なのに、自分とドラムの他には何も……何一つ、積み荷が乗っていなかったこと。

 乗組員どうしの雑談から、『緊急出動』という単語を、彼女は確かに聞き取っていた。

 それに、

 ナリタの空港の職員が検閲もせずドラムを入国させたとき、国際電話で准将らしき相手と、長い長い押し問答を繰り返していたこと。

「おじさん! そうなんですね? 辞めさせられるんですね?」

 彼は応えなかった。微笑みを浮かべながら、それでも、言うべき言葉を考えているように黙っていた。

「ち……違うのよ!」そんな彼のかわりのように、秘書が口を開いた。「依願退職なの、そういうカタチになったのよ。恩給だってちゃんと……」

 言いかけ、彼女は自分の言葉の意味に気がついた。

「申し訳ありません、ボス! さあお嬢ちゃん……戻りましょう、ねえ?」

 腕をひかれたが、しかし、リーゼは動かなかった。唇を結び、眉根を寄せた彼女は、鳶色の瞳で准将の次の言葉を待っていた。

「お嬢ちゃん!」秘書の手に、力がこもる。

「……ミセス・フォスター」准将が、秘書の名前を呼んだ。「放してあげてくれ」

「ですが……ボス!」

「頼む」短く、しかし重みのある口調で彼は言った。

「…………」彼の言葉を受け、無言のうちに秘書はリーゼの腕をはなした。

 それから、

「すみません、ボス」とだけ言い残して、オフィスを去っていった。

 ソファに座ったままの客、白衣姿の男が口をはさんだ。「……アルバート、私も外そうか」

「ああ……すまない、レイフ」

 ドアが閉じられた。

 

 

 

 

 ドアが閉じられた。

 オフィスに残されたリーゼは、あらためて訊ねた。「おじさん……教えてください」

「うん……」ためらうような沈黙をおいてから、准将はうなづいた。「……本当さ」

 また、沈黙。

「……あれを日本に、それも民間空港のナリタに飛ばすには……おじさんの立場では、ちょっと無理があったんだ。でもね……」

 言い終える前に、リーゼの身体がぐらり、と揺れた。

 彼女の、見開いたままの両眼から涙があふれてきた。

「やっぱり……やっぱり、そうだったんですね」こぼれる涙をぬぐいもせず、リーゼは小さな声で言った。

「いや、あのね……」

「ごめんなさい、ごめんなさい! 私、私……勝手なことばっかりして……」

 准将が言葉を継ぐいとまを、リーゼは与えなかった。涙とともに、次々と悔恨の気持ちが口をついて出る。

「おじさんの迷惑も考えないで……私、なんて取り返しのつかないことを……!」

「だから、そうじゃ……」

「そうよ……勝手にトラックを処分して、勝手に日本で暮らすなんて決めて……おじさんや母さんや、みんなの事なんて全然考えないで……私、勝手に……」

「……そうじゃないんだよ!」

 強い口調とともに、准将の両手が、リーゼの頬を包んだ。

 そのぬくもりに我に返って、彼女は口をつぐむ。

「いや、ごめん……違うんだよ。おじさんはね……」声のトーンをおとして、彼は続けた。「軍は、どのみち辞める気だったんだ」

「え……」

「いや、それはそれとして……」目をそらして小声でつぶやいてから、准将はまたリーゼに視線を戻し、言った。「おじさんはね、あの時したことは全然悔やんじゃいないよ」

「だ、だって……」

「だって、おちびちゃんの……いや、やはり失礼だな。ミス・タランダ=タチバナ」

 彼は大きな手を頬にあてたまま、その親指でリーゼの涙をぬぐった。

「君が……いや、人が大人になっていく旅の、そのひとつの旅立ちの後押しができたんだ。……こんな嬉しいことがあるものか」

「でも……でも……」涙が止まらぬまま、リーゼが口ごもった。

 それから彼は、まるで一語一語を慎重に選ぶように、ゆっくりとした口調で語り始めた。

「いいかい、ミス=タチバナ。人はね、みんな旅を……それぞれ自分の道を歩いて生きて行くんだよ。おじさんもそうだし、お母さんだって、タチバ……お父さんもそうだったんだ。

「そして君は、その歩くべき道を日本で見つけてきたじゃないか。おじさんにとってはね、その道を見つけてあげる手伝いができたことが、本当にうれしいんだよ」

「でも……でも……」

「おじさんはね」准将の親指が動き、こぼれた涙をぬぐい取った。「あの時のことをむしろ、誇りに思ってるよ。お母さんやお父さん……神様にだって胸を張ってみせるさ。どうか……だから、どうか……」

 窓の外で、またしてもエンジン音が轟いた。

「……どうか、おじさんやお母さんに気をとられて、その道を見失わないようにしてほしいな」

 

 

 

10

 

 長く響いた轟音が、ようやく鎮まった。

「……わかってくれるかい?」彼が訊ねた。

 准将の言葉を聞き、リーゼは顔を上げた。

「……おじさん……!」そのまま何かを言いかけ、また、口ごもった。

 准将は、ちょっと困ったような顔をして……それから言った。

「じゃ、じゃあ……約束してくれないか?」

 静かに、触れた頬から手を離す。

「君が大人になったとき、誰かの……君の子供か、あるいは別の誰かはわからないけど、その誰かが自分の道を見つけて歩いていこうとする時に、その背中を押してあげてくれないかな?」

 そこで彼は、片目をつむって見せた。「……それで、おあいこさ」

「…………」リーゼは、まだ、黙っていた。

「……ほら。人を楽しませるアーティストが、いつまでもそんな顔してちゃ……」

 そう言いかけた准将は、いきなり、何かを思いついたように黙りこんだ。

「……?」それを不思議そうに、リーゼが顔を上げる。

 彼は……口をつぐんだままオフィスの壁を見ていた。

「仕方ない、白状するよ。その……退職したあとはね」

 いたずらっ子がいいわけをするようにそっぽを向くと、額に浮いた汗をぬぐって准将が続けた。「いやあの、新しい家はね……お母さんのところに近いんだ」

「…………」リーゼは、声をかけることもできず、准将を凝視していた。

「知ってるだろう? 森と湖の綺麗なあの土地を」

 目をそらしたままの彼の頬が、かすかに赤みを帯びているのがわかった。

「前から思っていたんだよ。あそこに家を建てて引退して……毎日、お母さんに会いに行きたいなって、ね」

 短い、沈黙。

 彼女に目をやった准将は、にっこり笑ってそう言った。

「……ほら、その笑顔だよ」

 それから、壁に飾られた写真に目をやった。

 色褪せた写真の中にいる、舞台衣裳の猛獣使いのミス=リーゼロッテ。

 今。

 彼女と……彼女の娘、

 二人のミス=リーゼロッテは、同じ笑顔をしていた。

 それを……それを見つめるアルバート=リーロイ准将もまた、昔と変わらぬ瞳をしていた。

 

 

 

11

 

「……意外と薄いんですね。オフィスのドアって」

 ドアに背をもたせたまま、秘書がつぶやいた。

「ああ」来客だった男が、彼女に並ぶようにドア沿いに立ち、応えた。

 ついつい持ち出してしまった、ティーカップを口に運ぶ。

「聴く気は、なかったんですよね……博士」

「まあ……そうなんだが。ところで、ミセス・フォスター」羽織った白衣の襟元を触りながら、男が訊ねた。「アルバートの……准将の喜びそうなプレゼント、心当たりないかな?」

 沈黙。

 長いこと迷って、秘書が応えた。「チョコレート・ドーナツかしら。やっぱり」

「ドーナツ、ね」男は応えた。「私だって、死ぬほど食べさせてやりたいよ。本当は」

「あら、そうなんですか?」と、意外そうな顔をする秘書に、男は続けた。

「友人としてはね。本人には内緒だよ……で、他に心当たりは?」

「う〜ん……」わざと長めに沈黙をおいて、彼女は返答した。「すみません、私には……」

 最後の一口を飲んでから、彼は考え、そして言った。

「……確か、釣りが好きだと聞いた覚えがあるんだが……どうだろう? 最高級のグラスファイバー竿とか……」

「ええっ? 釣り好きなんて初耳ですわよ」と、秘書は即座に否定した。「……聞き違いじゃないかしら?」

 そのまま……男に視線を合わせないように気をつけながら、彼女は言葉を続けた。「そうだ、無難にハンカチとか、時計なんてどうかしらね?」

「う、そうか……でもなあ」それじゃあ……と、男はドアを指して言った。「あの少女に訊くとするか」

「あっ、いやあの……たぶん、知りませんわよ」

「ずいぶん確信的だね。ミセス」男の顔に訝しげな表情が浮かんだ。「本当は、何か知ってるんじゃない?」

「いやですわ、博士ったらもう……だからやっぱり、定番が一番ですって!」

「……そうかな?」男はそう言って、名残惜しげに空のティーカップを見た。

「……そうですとも。おかわり、用意しましょうか?」笑顔を作って秘書は、分厚いガラスレンズ越しに男の顔をのぞき込んだ。

「チョコレート・ドーナツでもいかがです?」

 

 

 

(fin)

(H11.12.19 R.YASUOKA
(Based On Comic,'Le Cirque de Karakuri'
(by KAZUHIRO FUJITA)

 

 

おことわり

 本作はフィクションです。
 登場する、あるいは想起されるいかなる人物・地名・団体・事件・軍事関係も、実在のものとは全く無関係であることご了承ください。