からくりサーカスオリジナルストーリー
STAR,
INE
and YOU

 

 雨上がりの風が、夏の夜に心地よく吹き抜けていった。

「ふぁ・・・フサエ・・・」眠そうに目を半開きにしたまま、仲町志信は妻のフサエに声をかけた。「・・・おまえ、なにしてんだ」

 フサエは、その声にちょっと驚いたようだ。

「え、あ・・・ちょっと、眠れなくってね」そして、訊ねた。「あんたこそ何よ」

「おしっこ」

 たった一言だけ答えると、そのまま仲町は小屋の並びにある簡易トイレに入っていった。

 半開きになった扉の向こうから、勢いのいい水音が立ちはじめる。

「あんた・・・ドアくらい、閉めなさいよ」顔をしかめたフサエは、再び夜景に目をやった。

 彼女の視線の先には、仲町サーカスの興行地である地方都市が、きらびやかに輝きながらひろがっていた。

 港から山の中腹まで広がっている赤や緑、あるいは白やオレンジをちりばめた光を放つ都市の姿を、仲町サーカスのテントがある、埋め立て地の駐車場から一望することができた。

 街の光にさえぎられてはいるが、よく見ると、晴れた空には星も出ている。

 そうした夜の景色を見ながら彼女はもう一口、手にしたワイングラスを傾けた。

 テント脇の街灯の下、寝小屋から持ち出した折り畳み式の机と椅子で構成されたその空間は、仲町フサエを女主人公(ヒロイン)にした一篇の舞台演劇のようだった。椅子に深く座り直した彼女は、丸机の上に置いたままの女性週刊誌を開いた。

 そこで、小さくため息をついた。

 グラスを取り直してボトルの赤ワインを注ぎ、それからまた夜の街並みに目をやる。

 そのワインは、昼間、旧知の興行主が土産に持ってきた地元産だった。

 高級品というほどでもないが、とにかく口当たりがいい。

「何してんだ、おまえ」

 用を足し終えた仲町が、手も洗わずにトイレから姿をあらわし、フサエに訊ねた。

「あ、あんた・・・」フサエはグラスを置くと、戸惑いながら応えた。「だから、ちょっと・・・眠れなくってさ」

「眠れねえってお前・・・そんな、よそ行きでか?

 砂利地の上にところどころできた水たまりを避けながら、仲町がテーブルにと歩いてきた。

 

 

 近づくにつれ、仲町には街灯の下いずまうフサエの姿を見てとることができた。お気に入りだというベージュのワンピース、首から胸もとを飾るネックレス・・・よく見ると、うっすらと化粧さえしている。

 ほどいた髪が・・・亜麻色に染めた長い髪が、風に吹かれて揺れている。

 その姿に奇妙なときめきを覚えながら、もう一度訊ねた。

「どうしたんだよ、お前。そんな格好で・・・」

 しばらくの沈黙をおいて、そして、言った。

「ガラでもねーだろが」

 本当は、『綺麗だよ』とでも言えばよかったか・・・。

 だけど、それこそガラじゃない・・・仲町は少し、口元をすぼめた。

「あ、あははは・・・そうだよね・・・」

 明るく笑って、フサエは応えた。「な、何となくだよ。気にしないでさ・・・さあ、早く寝なよ」

「変な奴だな」目をこすりながら仲町はつぶやき、そして、さらに近づいた。

「だから、何でもないって・・・ほら、ヒロとノリが心配するからさ」

叩いたって起きやしねえよ、あいつら」とうとう仲町はフサエの目の前に立ち、テーブルに両手を置くと、そのまま空を見た。「ふう・・・涼しいもんだな」

「夕立のおかげで、暑さがどこか行っちゃったようだね」応えてフサエは、さりげなく、机の上の雑誌に手をのばした。

 あと少し、あと少しで手が届きそうなときに、

「何だ? これ」

 仲町のごつい手が、雑誌をひったくった。

「ちょ・・・あ、あんた・・・!」あわてたフサエが、雑誌を取り返そうと席を立つ。

「何だよ、ちょっとくらい読ませてくれたって・・・」仲町は驚きながらも、雑誌を取られまいと高く捧げ持ちながら、そのまま、開かれていたグラビアに目を通した。

 そして・・・突然、その動きが停まった。

「フサエ、おまえ・・・」

 仲町は、一目見たその雑誌を、静かにテーブルに置いた。

 それは、いわゆる三ツ星レストランの特集記事だった。夜景える洒落高級料理店で、美人女優がワイングラスを傾けている写真が、見開きで掲載されていた。

 バブル景気に浮かれていた時代である。

 誰もが、金持ち気分を満喫することができた時代だった。

 だが、サーカスの旅芸人として暮らしてきた彼らには、縁遠い世界がここにあった。

 読み終えた仲町は言葉もなく、そのまま雑誌を置き、それからフサエと、机と椅子、そしてワイングラスを見渡していた。

「や、やだよお前さん・・・ちょ、ちょっとさ、マネしてみたかったんだよ」

 雑誌を引っ込め、フサエはそこでもう一度笑ってみせた。「やだねえ・・・やっぱこんなの、あたしのガラじゃないよね・・・」

 そう・・・ガラじゃないのは、わかっていた。

 ガサツで大雑把、間違っても高級レストランなどと縁があるわけではない。高綱フサエ姐と呼ばれ、旅を枕にしてきたことを、むしろ誇りにさえ思ってきたのだ。

 そう・・・ガラじゃないのは、わかっていたのに・・・。

「ほら・・・あんたも黙ってないで、なんか言ってよぉ」

 フサエは、机のワイングラスを片づけはじめた。

「もうヤメヤメ! フサエ姐さん、もう寝まーす!」

「・・・フサエ」

 そのフサエの手を、仲町が止めた。

 それなり、

「待ってろよ」とだけ言い置いて、小屋へと走り去っていった。

 

 

「な・・・」

 まもなく戻ってきた仲町の姿を見て、フサエは言葉をつまらせた。

「待たせたな」

 彼が着込んできた派手なデザインの燕尾服は、サーカスの舞台挨拶に着る衣裳である。生地一面にちりばめたラメスパンコールが、常夜灯をうけてキラキラと輝いている。襟元を飾る巨大な蝶ネクタイを締めながら、仲町が声をかけた。

 公演でならともかくとして、絶対に、オモテを出歩く格好ではない。

「どっ、どうしたのよ・・・あんた?」

「何って・・・給仕だよ。高級レストランのよ」

「え・・・」

「まあ、よ・・・適当な衣裳がなかったんだが」自ら衣裳を見て、仲町が自嘲した。「くそっ・・・こんなことなら背広、もう一着作っときゃよかったな」

 言葉を失ったフサエにかまわず、仲町は机を照らしている水銀灯を見やった。

「少し明るいけど・・・いいか」

 言うなり、机のまん中に防災用ロウソクを立てた。

「どうだ、これで気分が出ただろう」

寄贈・富士見町商店街』と、横に刻み込まれたロウソクに灯がともされた。

 小さな炎が、ワイングラスに反射し、揺らめく。

 水銀灯の光の下では幻想的ということもないが、それなりの雰囲気ができたのに気をよくして、仲町はにっこり笑ってフサエに目をやった。

 それから、うやうやしくお辞儀をした。「いらっしゃいませ、奥様」

 スパンコールが、白色の照明に燦々ときらめいている。

 吹きだしたい衝動を抑え、フサエは上品に応えた。「それじゃあ・・・ワインをいただける?」

「かしこまりました・・・それでは、当店自慢のボージョレ・ヌーボーはいかがですか?」仲町は、唯一知っている名前を口にした。

 くすっと笑いながらフサエが答えた。「あんた・・・解禁日はまだずっと先だよ」

「うるせえな、まぜっかえさねえでくれよ」

「わかったよ・・・じゃあその、解禁前のボージョレ・ヌーボーをいただこうかしら」

「かしこまりました、奥様」仲町はあくまでしゃちほこばってみせながら、それなりに洗練された仕草でボトルをかざして見せて、そして言った。「さあさあ、これなるは・・・当地熟成の特産品、一番絞りの寒冷仕込み最高級大吟醸ボージョレ・ヌーボーでございます」

 随分といかがわしいボージョレ・ヌーボーもあったものである。

 フサエは笑いたいのをこらえながら、それでも優雅にグラスを差し出した。

 応じた仲町が、静かにワインを注ぎはじめた。

 赤い液体がたちまちにグラスを満たしていく。

「あ・・・」フサエが声を上げた。「あんた、入れすぎ・・・」

「サービスでございます。奥様」グラスめいっぱいに注ぎ終えた仲町はボトルをあげると、蝶ネクタイをしごいてから、そして言った。「さあ奥様、ぐぅーっとあけてください」

「ぷはははっ!」たまらず、フサエが吹き出した。「ぐうっとあけろってアンタ、そんなソムリエがどこに・・・似合わないねえ、あははは!」

「くそっ・・・悪かったな」

「・・・あ、ごめんごめん。いただきまーす」

 笑顔のままでフサエは、こぼれないようにしながらワイングラスを傾けた。

「・・・おいしい」一口飲むと、微笑みを浮かべてみせた。

「あんたも座んなよ、お酌するからさ」

「お酌ってお前、お客様が・・・」

「あはは・・・ごっこはもういいよ」そう言って、フサエはウィンクをしてみせた。「やっぱり、ガラじゃないよね・・・あたしたちってさ」

「そうか・・・うん、じゃあ」仲町は微笑みを浮かべた。「じゃ、椅子とグラス持ってくるぜ」

 

 

「ぷはぁ・・・」一気にワインを飲み干し、仲町は息をついた。「うまいもんだなあ」

 さすがに暑かったのか、テントから持ち込んだ折り畳み椅子の背に上着を掛け、ワイシャツ姿になっている。

 ワイングラスがなかったので、日本酒用のガラスコップが代用品だ。

 それでも、ビールや焼酎などを持ってこなかったのは、彼なりに雰囲気をおもんばかってのことだろう。

 そんな環境でもせめて、恋人同士のような洒落た会話のひとつもできればいいのだろうが、口を開くと出るのはサーカスの話ばかりである。

「・・・どう、信金の頭取さんはなんて?」今もまたフサエは、さっきからのスポンサーの話題を口にした。

「説得に応じてくれたよ。スポンサー、続けてくれるってよ」

「応じたって、あんたまさか・・・」フサエは目を丸くした。「手ぇ、上げたんじゃないだろうね」

「バカいえ、誰がそんな・・・」

「冗談よ、冗談」あわてる仲町に、彼女は笑って応える。「・・・銀行さんも大変なんだろうね。バブルとかがはじけたっていうの?」

「ああ。どうやら、これからもっと不景気になるらしい・・・でも俺、そのとき言ったんだよ」

 仲町は、そこで少し言葉を飲んだ。

「・・・なんて?」

「いいか、よく聞けよ」胸を張って言った。「『そんな世の中だからこそ、オレらサーカスががんばって、世の中を楽しくしなきゃいけないんですよ』ってな!」

「・・・そうだよね、あんた」少し間をおいてうなづくと、フサエは夜空に顔を向けた。

 そして、グラスを口にした。

「・・・どうした。よくなかったか? 俺のキメゼリフ」仲町が、その顔をのぞき込んで言った。寝ないで考えてたんだぜ」

「ううん、良かったよ。さすが団長さんだね」フサエがかぶりを振った。「・・・ホント、がんばんないとね」

「そうだな」満足げにうなづき、仲町も空を見た。

 不意に、フサエが言った。

「あっ、昴だよ」

「すばる?」言われて、仲町が眉を寄せる。「嘘だろ? こんな都会で・・・」

「ほら、よく見てごらんよ」

 言われて仲町は水銀灯の明かりを手でさえぎりながら、わずかに星のまたたく空を凝視した。

「お・・・そういや、なんかボヤーって光ってんな」

 じっと見てると浮かびあがる。仲町はようやく見つけた群星にじっと目を凝らした。

「そういえばね、ヒロがさ」フサエは思いだしたように言った。

「・・・学校から借りた図鑑に、昴の写真があったんだよ。それ見てさ、『あっ、サーカスの星だ』ってさ」

「サーカスの・・・星?」

「星の一個一個を指さしてさ・・・『これが父ちゃん、これが母ちゃん、ノリ兄ちゃんに和也さんにミエさん・・・』てね。ふふふ」

「ふん・・・時々、妙なことをいいやがるな。ヒロは」

「詩人になれるかもよ、あの子・・・あんた、おかわりは?」

 黙って、仲町がコップを差し出す。

 フサエがそれにワインをつぐ。

 夜の風が、爽やかな涼気を二人に運んできた。

 港のどこかで、汽笛が鳴っている。

 星を見たまま、仲町はコップを口にし、ワインを飲んだ。

「・・・サーカスの、星か・・・」そして、つぶやくように言った。「そうかもな」

「え?」彼の言葉がききとれず、フサエは耳を傾けた。

「・・・あんなちっぽけな光だけどよ。それを見て、心を和ませてくれるお客さんがいるんだよな・・・」

「あんた・・・」

「おっと、酔いがまわっちまったようだ」失言した、とでもいうように仲町は口元をおさえた。

 それから彼は、もう一口とコップを取った。「フサエ、お前も飲むか?」

「・・・好きだよ、あんた」

 

 

 いきなりの言葉だった。

「ぷふ」

 仲町は、口にしかけたワインを派手に吹き、それからフサエを見た。「おっ、おまえ・・・いきなり何を」

「あんた、好きだよ」頬づえをついたフサエは、仲町の視線をまっすぐに見つめかえしている。

 そして、言った。「あたしのこと・・・好きかい?」

 目のまわり赤く染まっているのが、はっきりわかる。

「ばっ、バカ・・・酔ってんじゃねーよ・・・」

 こぼれたワインを拭いながら、仲町はうんざりしたように目をそらした。

「ねえ・・・答えてよ、今だけでいいからさ」ゆっくりとした仕草で席を立ちながら、フサエが言葉を続ける。「嫌いなのかい?」

「嫌いってお前・・・そんなわけ、あるかよ」

「じゃあ言って、・・・好きだってさ」足元をふらつかせながら、フサエはゆっくり歩いてきた。

「・・・・・・」応えずに、そっぽを向いたままで仲町はワインをあおる。

「ねえ」背後にまわったフサエは、そのまま彼に抱きついた。

「おっ・・・おい!」

 驚いて離れようとした仲町に、フサエの腕がからまる。

「だめ! 言ってくれるまで・・・動かないよ」

 上体をあずけるようにもたれかかった彼女が、彼の耳元で囁いた。

「ばっ、バカ。誰か来たら・・・」

「いいじゃん、構うもんか」頬を上気させてフサエが言う。「それより・・・ねえ」

「お、おい・・・」と、口にしかけて仲町は黙り込んだ。

 彼女のぬくもりが、背中から伝わってくる。

 控え目だが、化粧水の芳香が鼻腔をくすぐる。

 いつのまにか彼の顔も、彼女の酔いが伝染したように紅く染まっていた。

 やがて、

「わかった、わかったよ!」

 勘念して、仲町が口を開いた。

 そっぽを向いたままだが、不機嫌そうな顔だが、たった一言つぶやいた。

 

 

「好きだよ」

 

 

 沈黙。二人は、空を見上げた。

 まぶしく光を放つ街灯の向こうにある、幾万の星を見やるように、二人は空を見ていた。

「・・・ありがと」静けさを破り、フサエは腕をほどこうとした。

 その手を押しとどめるように、太い、毛むくじゃらの腕が重なった。

「あんた・・・」

 腕をからめたままでも、仲町はあいかわらず空を見ていた。

 何かを言おうと口を開きかけ、やめる。

 そのたびに、自慢の口髭がぴくぴくと動いていた。

「あんた・・・も、もういいよ。ありがと、もう・・・」

「・・・好きだよ、ありがとな」

 フサエの言葉についに意を決したのか、仲町が続けた。「ありがとな・・・その・・・」

 

 

 沈黙。

 

 

 

 

 

 

 

やがて、

「・・・お前みたいなイイ女が、こんなゴロツキ芸人についてきてくれてよぅ」

 空を見たままだったが、仲町は静かに言った。「ずっと苦労をかけ通しでな・・・でも、いつか・・・」

「やっ、やだよあんた。ねえ、もう・・・」フサエの顔が、いっそう赤くなったように見えた。

 仲町は・・・仲町は、つかんだ腕を引き寄せて、その両手を抱きしめた。

逢えてよかったよ、お前に・・・さ」

「あ、あんた・・・」言いかけて、フサエは言葉をつまらせた。

 ただ黙って、仲町の広い背にもたれ、頬をよせた。

 星が、流れた。

 しばらくの間、寄り添う二人は身動きひとつせずに星を見つめていた。

イラストレーション:神無 猫さん

 ・・・やがて、

「・・・ガラじゃねえな、オレもよぅ・・・」

 独り言のように、仲町はつぶやいた。

「ううん・・・」

 まつげを伏せ、フサエが応えた。「うれしいよ・・・幸せだよ、あたし・・・」

 ・・・もう、死んでもいい・・・。

 軽い気持ちで口にしかけた言葉を、彼女は飲み込んだ。

「あたしは死なない・・・死なないよ。みんなと一緒に、笑って生きてくんだ。ねえ・・・」

 意外な言葉に仲町は振り返った。

 だが、

 もうそのときには、フサエは彼の背中にもたれかけたままで、小さな寝息をたてていた。

「フサエ・・・まったく、こんなところで寝ちまって・・・」

 手をのばして机のロウソクを吹き消すと、「どっこいしょ」と彼女を背負った。

「あーあ、ほんとにガラじゃねえよな・・・」

 そうつぶやき、仲町は星を見上げた。

 それから、机に置かれたワイングラスに目をやった。

 それから・・・最後に、背中で眠るフサエを見た。

「・・・お前のせいだよ」

 小さな声で言うと、そのまま仲町は、寝小屋に向かって歩き出した。

 誰もいなくなった丸机の上を、夜の風がもう一度吹き抜けた。

 静かに、静かに、雑誌のページをぱらぱらとめくっていった。

(fin)

 

(H11.11.3 R.YASUOKA
(Illustrations by NEKO KAN'NA
(Based on song,
written by MIDORI KARASHIMA)

おことわり:
本作は、藤田和日郎作「からくりサーカス」をベースにしたフィクションです。
登場する、あるいは想起されるいかなる個人・団体その他も、実在のものとは無関係です。