からくりサーカスオリジナルストーリー
「紫陽花忌〜振り返るには遠すぎる〜」
序章〜門前〜
日本上空に停滞した前線が、その日も、その町に雨を降らせている。
その町のはずれにある建物の門前に、一台の高級外車が停められた。
タイヤが水たまりに踏み込み、しぶきとなって泥水が撥ねあがった。
運転席のドアが開き、スーツ姿の大男が外に出る。
「うわ……濡れねえように気ぃつけてくだせえよ、兄貴」
降りた男は車の反対側へ回り込み、それから傘を開いて助手席のドアに手をかけた。
「ああ、やな季節ですねえ」
飄々とした口調で応えながら、コート姿の男がドアの開いた助手席から降り立った。
細身の男だった。色白で面長の顔が、切れ長の眼で空を見上げている。
何かを言おうと口を開き、やめる。
そのまま顔を、目の前にそびえる建物に向けた。
そこはもう、何年も使われていないようだ。
周囲を囲む黒灰色に汚れたコンクリートの塀と入口の錆びついた鉄格子の門扉の向こうには、割合に広い敷地と、無機質な2階建ての建築が見える。
「……まったくですぜ、兄貴」その様子を怪訝に思いながら、大男が相づちをうった。
男の、大雑把に後ろになでつけた長髪が濡れないよう、大男が気を遣って傘をかざす。
かざして大男は、言葉を継ぐ。「梅雨ってのぁ、なんかこう……生暖かくって、ジメジメして薄気味悪いですねえ」
「黙ってろ、羽佐間」
「へっ……へえ……」男の言葉に、羽佐間と呼ばれた大男は口をつぐんだ。
「花は……?」そのまま男が、まるで独り言のように言った。「花はどうした?」
「あ。へい、こっちに」
言われて気づいたのか、羽佐間が後部座席のドアを開いた。
傘をさしかけた男が濡れないように注意しながら、中へと手を伸ばす。
「兄貴……毎度のことですけど、アジサイの花束って妙なもん、いったいどうして……」
「……黙れって言ってんですよ」
「す、すいません……お、これだ」肩をすぼめた羽佐間が、言葉とともに車の中から大きな花束を取りだした。「どうぞ、兄貴」
羽佐間の言うとおりそれは、紫陽花の花束だった。
薄いピンクや水色を散りばめた、たくさんの小さな花弁の集合体が深緑の葉に囲まれているが、花の部分が大きすぎているので、花束としてはやや不格好といえた。
だが、さほど気にもかけずに男は花束を受け取ると、そのまま、羽佐間の手にする傘をひったくった。「門を開けてくんな」
言われて羽佐間はゲートに駆け寄り、カギのかかった鎖をほどき始めた。
羽佐間が鎖をがちゃがちゃといじるたびに、門扉に懸かった
管理物件につき立入禁止 サイガ電気(株) |
と書かれたプレートが揺れる。
その門柱に、今使われているのと別な蝶番の痕があるのに、羽佐間は気がついた。
まるで、一度壊れたのを修繕したような……。
ゲートが開かれると、阿紫花は中へ歩き始めた。
そして、言った。「それじゃ羽佐間、おめえは例年通り、建物で待っといてくだせえ」
「へ……へえ」応えた羽佐間は、そこで遠慮がちに口を開いた。「ねえ兄貴……? 前から聞きたかったんですが……いったいここにゃ何があるんですかい?」
羽佐間の質問を聞くなり、男の表情が険しくなる。
「余計なコトを詮索するんじゃねえ」
「うへっ……すいやせん!」それに気圧されて、羽佐間がたじろいだ。
「なんなら、おめえだけ今すぐ病院戻って、坊やのガードでも……」
と言いかけた男だったが、羽佐間が平謝りするさまに気づくと、そっぽを向いて言った。
「ま……今日は手下に任せとけばいいでしょうね。あっちは」
「すいません、兄貴……」ばつの悪そうな顔で、羽佐間が男を見る。
「じゃ、あとでな」
そんな羽佐間を気にもとめず、男は一人で境内に向かって歩いていった。
男は……黒賀の人形使い、阿紫花英良。
ぱらつく小雨が、風に吹かれて舞い上がった。