からくりサーカスオリジナルストーリー
「紫陽花忌〜振り返るには遠すぎる〜」
十四章〜驟雨〜
「……加納さん?」
自室のドアを開けたとき、阿紫花は中の光景に声をつまらせた。
カーテンも閉めず、電気もつけず、加納は、薄暗い部屋のソファに身を沈めていた。
「戻ってたんですか、加納さん?」声をかけながら、阿紫花が室内灯のスイッチを入れる。
明るくなってはじめて、加納は阿紫花に気づいたようだ。
「……英、か」
静かに上体を起こし、顔を向けた。
「今、アガリですかい? 稽古は」
「晩飯を食べに来たんだ」
カーテンを引っ張りながら、彼は応えた。「終わったら、また続けるけど……どうしたんです? 具合でも……」
「いや」立ち上がって応えると、加納は、大きく伸びをした。
「よかった! 今度こそ、加納さんの足を引っ張らないようにしねぇと……」
「英」
阿紫花を遮った加納の声は、短く、低く、静かだった。
「おめぇ………………村へ帰れ」
「えっ……」
カーテンを閉じかけた、阿紫花の手が止まる。
「……なっ、何でだよ!」
彼は加納に歩み寄ると、そのワイシャツの胸にすがりついた。
「そんなコト言わねぇでくれよっ、加納さん!」
「えっ……あっ」
その、阿紫花の勢いに加納は躊躇したが、すぐに言葉を続けた。
「びっくりしやしたかい? 冗談ですよ、冗談♪」
それから彼は前髪を、カールのような癖のついた、長い前髪を静かに撫でつけた。「……貞義が来たんだ、今度こそおめぇにゃいいトコ見せてもらわねぇとな」
「なんだ、おどかさねぇで下さいよ……」つぶやきながら阿紫花は、加納から手を離した。
「オレ、頑張ります!
貞義に……加納さんが教えてくれた黒賀の人形使いの実力を、貞義に見せてやりますから!」
「そうかい、そうですかい……」加納は静かに、ゆっくりと相槌をうった。
その、とき。
二人のいる部屋を
……いや、『工房』全体を、
甲高いベルの音が切り裂いた。
「なっ、何だ!」
驚いた阿紫花が、カーテンの隙間から外を見た。
雨にかすむ『工房』の庭を、一台の車が走り去っていくのを、彼は見た。
あわただしい気配に振り向くと、
部屋に山仲が転がり込んできた。
開かれたままのドアの向こうで、
幾人もの黒服の男たちが廊下を駆けていく。
「加納さんっ……貞義が言ったとおりでしたよっ」山仲が叫んだ。「善治の野郎、女を連れて逃げ出しました!」
「……」加納は無言だった。
「お、女って……?」そのかわりに、阿紫花が訊ねた。
「ほら、庭師やってる娘ですよ!」応えて山仲が言う。
「えっ!」
脳裏に昼間の光景が、乱暴にゆかりの手を引く善治の姿が甦った。
でも、貞義……って? かすかに疑問が浮かぶ。
「行きやしょう」遮るように加納が言う。「人形の支度はできてやすかい? 山仲ァ」
「はい! 『ダクダミィ』と『トレジャーキーパー』を、屋上で積込させてるところです」
「そりゃあ話が早い」
それから、加納は阿紫花に向き直った。
「英……聞いたとおりです。あのバカ社長がお嬢ちゃんをさらっちまいやした。助けに行きやすね?」
考えるまでもない。彼は、うなずいた。
雨が、風を伴った雨が、疾走する車に降り注いでいる。
幌をかぶせたキャデラックで善治は、ヘッドライトが照らす道の彼方を睨みつけていた。
「善治様! お願いです、
お戻りください。『工房』へ……!」
幾度目になるだろうか、
ゆかりは、
助手席から善治に懇願を続けていた。「みんなが心配してます! だから……」
「バカっ。
だから……ゆかり、何度も言っただろう!」
フロントガラスを拭うワイパーに目をやりながら、善治も同じ応えを繰り返した。「おまえ、あそこにいたら殺されるんだよ! だから……」
不意に、
あたりが明るく……まるで、
光の雨が降ったように
明るくなった。
「チキショウ! 奴ら……あんなものまで!」
絶叫する善治の傍らで、車窓からゆかりが空を見上げる。
ヘリコプターが一機、探照灯をきらめかせながら、彼らが走る森の上空に迫っていた。