からくりサーカスオリジナルストーリー

「紫陽花忌〜振り返るには遠すぎる〜

三十章〜静謐〜

 

 

「羽佐間ぁ」

 部屋の入口に立った阿紫花は、もう一度名を呼んだ。

 そのまま、まるで何かを探しでもするように、あたりを見回した。

「あ、兄貴……」羽佐間が応える。「戻ってきたんで?」

 返事はなかった。

 果たして、それは気がつかなかったからだろうか……何かを考えるように切れ長の目を細め、荒れ果てた部屋を眺めている。

「う……」
二の句を継ぐのをためらい、羽佐間は言葉を失った。

 

 短い沈黙。

 

「阿紫花」
今度は、善治が声をかけた。「おまえ……来てたのか」

「……おや、社長じゃねぇですかい」
あたかも
今さら気づいたように、
阿紫花の視線が善治とその車椅子に留まった。
「こいつはまた、妙なところでお会いしやしたねぇ」

「おまえもな」
とだけ応えて、
善治は、それ以上話そうとはしなかった。

 阿紫花も黙る。

 

 短い沈黙。

 

「外は……」

 意外なことに、阿紫花の方から口火を切った。

「……外は雨です。出るなら、傘を持ってきなせぇ」

「ああ」善治は応えた。

それから……
坂を登るときは、気をつけてくだせぇよ。
ぬかってますから

 阿紫花の言葉に、善治は静かにうなずいてみせた。

 そのまま彼は、
れたままの秘書に車椅子を寄せると、
その体を軽く足蹴にした。
「おい、おまえ……いつまで気を失ってるつもりだ」

 小さくうめき声をあげ、
秘書が起きあがる。
「しゃっ、社長!……ご無事でしたか……」

「ほら、行くぞ」と善治は、車椅子を押させて
そのまま部屋を出ていった。

 善治も、そして阿紫花も、もう互いを顧みはしない。

……ところで、おまえ
秘書に話す善治の声が、壁の向こう側から届く。
「命惜しさに、
わし見捨てて気絶のフリしておったろ、え?」

「めっ……滅相もございません! 社長……」
弁解する秘書の震える声が、
車椅子とともに、そのまま遠ざかっていった。

 そして、

 部屋には二人だけが、阿紫花と羽佐間の二人だけが残された。

 

 そして、沈黙。

 

 阿紫花は

 何も言わず、ただ、無表情にコンクリート壁に目をやっている。

(この部屋で、阿紫花は、『H』と名付けられた人形を壊したのだ)

 善治の言葉が脳裏に甦り、羽佐間は、なんと声をかけようか迷っていた。

 いきなり、
阿紫花の手が、コートのポケットに伸びた。

 彼は、ポケットの中から
くしゃくしゃになった国産煙草の箱を引っ張り出し、
それから一本を口にくわえた。

「兄貴、どうぞ!」

 ライターを求めて手が動くところに、
羽佐間は、素早くおのれのジッポーを差し出した。 

両手でかざして火をつけようとした。
が、なかなか火が移らない。

「ちっ、しけってやんの」

 苛立つように、阿紫花が煙草を吐き捨てた。

「あ、ねえ兄貴……」
急いで、羽佐間は替えを求めてポケットを探した。

 が、

「いや、いいです」

 と言い置き、阿紫花は踵を返した。「帰るぜ、羽佐間」

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