からくりサーカスオリジナルストーリー

「紫陽花忌〜振り返るには遠すぎる〜

 

六章〜雨傘〜

 雨粒が、開いた傘を叩いていた。

 墓石と花束の前にしゃがみ込んで、阿紫花はしばらく、その音に耳を傾けていた。

 ふと思いついて、手にした握りを持ち直す。

固い感触のプラスチック樹脂、さっきまでの自分の体温が残っていた。

まるで子供がするように、阿紫花は傘をひとまわり回してみた。

 

 

 

 『H』のテストが終わってから、どうしてここまで歩いてきたのだろうか。

 

 

 

 庭は、雨に煙っていた。

 

 

 

 

 阿紫花は、庭の片隅の庭園にたたずんでいた。

 『工房』……懸糸傀儡研究施設にはそれは、あきらかに不似合いな景色だった。

 刈り込まれた芝生、小高い丘。

 植木に植え込み。大小さまざまの

 人工的られた自然景色が、降りしきる雨の中でかすんでいた。

 阿紫花の、目元まで下ろしている前髪をつたって、水滴がしたたり落ちる。

「……ちきしょう……」

 固く結んだはずの唇から、言葉が、漏れた。

 身動き一つとれなかった自分の姿が、頭に残って消え去らない。

 敗れたのが悔しいのではない。

 ただ、

 大勢に見守られる中、身動き一つとれなかった自分が……許せなかった。

 

 

(ま、場数みゃいいんです……にしなさんなよ。英)

 

 

 最後にかけられた加納の言葉が、余計に胸をしめつける。

 額を流れた雫が目に入る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今はもっと強く、もっと激しく雨に打たれていたかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……風邪、ひくよ……?」

「!」背後に気配を感じてまもなく声をかけられ、阿紫花は振り返った。

「きゃっ!」

 叫びがあがり、開いた赤い傘が揺れた。

 若い女だった。

 幻かと、阿紫花は思った。

 傘と同じ色、赤いワンピースが上品そうな、清楚な印象を強調している。

 いきなり睨みつけられたせいか驚いた様子で、

それでも興味深げに、傘の下から阿紫花をっていた。

 それから、

「……ごめんね、嚇かしちゃった?」

 一言いうと彼女は、傘を持った手を伸ばし、その傘を阿紫花にさしかけた。

 彼を濡らしていた雨が遮られる。

 阿紫花は反射的に、傘の下から身を退いた。

 今は、誰も寄せ付けたくなかった。

 しかし、

「ほら、傘ささないと濡れちゃうから」

 退がったぶん余計に傘が……彼女の手が無遠慮に伸びる。

 自分が濡れるのはお構いなし、というようにして彼女は、押しつけるように差し出してくるのだった。

 傘からはみ出した長い髪が濡れ、原色に近い赤い服に染みをつくっている。

 年上だと

 背も……伸び盛りの阿紫花よりも、わずかだったが高かった。少し背を丸め阿紫花に目線をあわせるようにして、彼女はほほえんだ。「ねえ、遠慮しないでさ」

 少し下がり気味の大きな丸い瞳と、化粧気のない薄めの唇が微笑をかたちどり、阿紫花を見守っていた。

 

 澄んだ瞳だった。

 

 澄みすぎていた。

 

「……いらねぇよ!」

 ようやく口を開いた言葉を叩きつけるように、そのまま彼は背を向け、走り去ろうとした。

 だが、

 突然、彼は襟首を強くつかまれ、引っ張られた。

 それが何かも分からぬまま彼の詰め襟の背中に、ぐい、と傘の柄がつっこまれた。

「ほぉら、使いなさいってばぁ!」

 陽気な声に振り返ると、彼女が笑いながら走り去るところだった。

「あははは。もう受け取らないわよ〜♪」

 白い歯を浮かべて笑顔を見せたまま、彼女は雨の中を、『工房』の建物へと駆けていった。

 もはや追いつかない。

 傘の柄の、冷たく固い……けどなぜか温かい感触を背中に感じながら、阿紫花はただそれを見送っていた。

 

 

 

 

「ねえ、きみ!……名前、なんて言うの?」

 去りゆく彼女が、大声で阿紫花に訊ねた。

 

 

 

「あ……阿紫花」
届くかどうかわからなかったが、応えた。

アシハナくん? あたしね……!」建物に消え入る彼女の応えが、庭園の阿紫花に投げかけられた。「ゆかり、ゆかりっていうのよ! よろしくね♪」

 一人きりになった彼の耳には、ただ雨粒が傘を叩く音だけが、あたかも置き土産のように取り残されていた。

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