からくりサーカスオリジナルストーリー
「紫陽花忌〜振り返るには遠すぎる〜」
八章〜繚乱その1〜
雨傘が揺れる。
何かの気配を感じ、阿紫花は振り返った。
だが、
築山から見下ろせるのはただ、荒廃した庭園ばかりだった。
雨にくすむせいか、鉛色の空のせいか。緑は、限りなく無彩に近い。
口元をわずかにゆがめると、阿紫花は再び正面の紫陽花に目をやった。
たった一房の花の淡い赤紫、青紫とが、彼を囲む小宇宙のごとき空間を唯一染めていた。
(昔は……)彼は思った。(昔は、もっとたくさん咲いてたんですがねぇ)
「傘を返すぜ」
目をそらしたまま、阿紫花は言った。
背中に無理矢理突っ込まれたのは、昨日のことである。
空は、梅雨の晴れ間。
久々に太陽が雲間からのぞく、明るい午後だった。
「えっ……」背後からの声に振り返ったゆかりは、そのまま凝固した。
「……おめぇも思うでしょ? うちの娘が一番美人だって」
武道場のような広いその部屋いっぱいに、勇壮なクラシックの楽曲が鳴り響いている。
朝から続く繰りの稽古で、阿紫花の繰る『トレジャーキーパー』が、絶え間なく大鎌を振り続けていた。
『H』が調整に入り、人形使いには丸一日の待機と休養が与えられていたのだ。
その、一風変わった練習法は、加納が考案した。
大音響の音楽に紛れ、隅に置かれたメトロノームが全く異なるリズムを刻んでいる。その音にあわせて、正確なペースで大鎌を素振りしなければならない。
しかも、加納は阿紫花に、繰りながらの世間話を強制した。
「もう、成田や高見んトコのガキと並べたって引き立つこと……」
「ったって、まだ小学校に入るか入らないかじゃないですか……」
『トレジャーキーパー』を巧みに操りながら、阿紫花は応えた。
それでつまり、『雑念に惑わされず自己を保ち、しかも周囲に最大限の注意を配る』人形繰りの極意が会得できるのだと、加納は力説する。
「ば〜か。美人になるかならねぇかってのぁ、生まれたときから決まってるんですよォ」クラシックに耳を傾け、足を拍子を取りながら加納は言った。
「でも……小さい頃に可愛いと、大人になってから……っていいますよ」
と、阿紫花は応える。応えながらも、傀儡の操作に乱れはない。
「ウチのは別格なんです!」加納は口をとがらせた。「英っ……おめぇは女をわかってねぇですぜ」
「……すいません」
「なぁに、謝るこたぁねえですよ。場数を踏みゃいいんですから。あっ、そうだ……」ふと思いついたように加納が訊いた。「おめぇ、庭で女と逢引してるって?」
!
『トレジャーキーパー』の大鎌が乱れ、全身のバランスが崩れた。
「英ッ!」
「すいませんッ!」
加納の叱責にすかさず人形を復して、阿紫花が謝る。
「ふふっ、まだまだ未熟ですねぇ……」一瞬のちには微笑みを取り戻し、加納が言った。
「加納さん、どうしてそれを……?」人形の体勢が戻るのを確かめ、阿紫花は訊いた。
「なぜって、加納さんの情報力を甘く見なさんなよ。おめぇが逢引してることくらい……」
「逢引なんかじゃねえよ!」阿紫花は反論した。「傘をっ、傘を借りただけだ!」
「ほぅ、傘をねぇ……」興が乗ってきたのか、気づくと加納は指揮者に擬して両手を振り回していた。「で……返しやしたかい?」
「そんなっ、そんなことするもんか。だっていらねえってのにむりやり……」
「だからそれが半人前だってんですよォ、英」加納の応えは明るく、そして厳しかった。「傘を貸してくれたその娘に、お礼くらい言えなくてどうすんで……そうだ、稽古のつもりで行ってきなせぇ。きっちり返してくるんですぜ」
阿紫花は応えなかった、応えられなかった。
無言の儘、『トレジャーキーパー』は、大鎌を横薙ぎにした。
「傘を返すぜ」
阿紫花の声に振り向いたゆかりは、突き出された傘とそっぽを向いたままの彼の顔とを、まるで何だかわからないように幾度も見返している。
「すごい、この人形……」
彼女は、傘を握った『トレジャーキーパー』の巨躯に、息を呑んでいた。