うしおととらオリジナルストーリー
「灯台〜凶羅余話」
プロローグ
その夜、月は、雲に覆われていた。
街からはずれた人寂しい道を、ひとりの僧体の男が駆けていた。
破れた法衣が、闇にひるがえる。
眉毛の白さを見ると、かなりの年配だとわかる。
しかし、老齢という言葉は到底似合わない、大柄の、筋肉質の体格だった。
くわっと、眼と歯をひん剥いた形相がすさまじい。
その僧、法名を凶羅という。
仙台で蒼月潮という少年を、そしてそれに取り憑く、とらという名の妖を襲ったのは、昨夜のことである。
その時に受けた傷の痛みが、まだ消えないらしい。
「く・・・くそったれ・・・がァァァァァ」
怨嗟の声とともに、ときたま、苦しそうに胸元を押さえていた。
致命傷をまぬがれたとはいえ、獣の槍の一撃である。
いや、それよりも、蒼月潮に破れ、あまつさえ情けをかけられたという屈辱感が大きいのだろう。
胸中に沸きたぎる激情をまぎらすため、一昼夜にわたって走り続けてきた。
その疲労と苦痛が、今、一気に凶羅に襲いかかってきた。
足どりが次第にゆっくりとしたものになり、やがて、よろよろとした歩みになった。
かっと見開いたままの眼にも、汗がしたたり落ちる。
痛覚と疲労感とが、全身の感覚を支配していた。
「おのれ、この・・・オレが・・・」
朦朧としてくる意識の中で、凶羅は、それでも歩みをやめようとはしなかった。
1
まぶしい光が、凶羅の意識を呼び戻した。
「坊さまァ・・・気が、つきなせえましたか」
人の声に起きあがると、凶羅は、おのれが軽トラックの荷台の上にいるのを知った。
いつ、気を失っていたのだろうか・・・凶羅はあたりを見回す。
まだ夜中だったが、顔を出した月が明るい。
軽トラックは、民家の中庭に止められていた。
その家は、坂の途中にあるようだ。小さな漁港が見下ろせた。
少し離れた岬の突端に、ちょうど家と同じくらいの高さに、大きな灯台が建っていた。
その光が周期的に、狭い中庭を、そして凶羅を照らしつけている。
そして、荷台のかたわらに立った、背の小さな老婆が、じっと凶羅を見つめていた。
「塩梅はどうでしょうか、立てますかァ?」
この地特有の間延びした、おだやかな口調で、老婆が訊ねた。
その声に答えたのか、凶羅が、むくりと起立した。
「ああ・・・よかったァ」ほっとしたように老婆がいう。「小便しようと車停めてたら、坊さまが乗ってましたんだ・・・びっくりしたぁ」
「世話になったな」凶羅は、ひとこと言い捨て、そのまま背をむけ歩きはじめた。
「ま、待ってくだせえまし!」老婆がパタパタと足音をさせ、凶羅を追う。「折角ですから、うちで泊まってくださいなァ」
だが、振り返りもせず、凶羅は歩き続けた。
ふいに、凶羅の背中の足音が聞こえなくなった。
灯台がぐるりと回る。また、あたりを明るく照らす。
凶羅は後ろを見た。すると、老婆が転んだのか、坂の途中でうずくまっている。
「・・・ババァ!」凶羅は駆け戻り、老婆の様子を見る。
「すいませんなァ・・・へへ、転んでしまってなァ」倒れたまま、老婆が顔だけ上げた。
その手が、法衣の裾をつかむ。
「お願いがァ、あります」老婆は、凶羅の肩を借りてゆっくりと起き上がった。「明日は、セガレの命日だァ。他生の縁ということでどうか、経を供えてやってくださいませんかぁ?」
「経・・・だと? オレがか」凶羅は、言葉を失った。
また、灯台の光が二人のまわりに射し込んだ。
「すいませんなァ」と、老婆。「このあたりにゃお寺が無くて、困ったいたんですだァ・・・お願いしますだァ」
いうなり、いったん立ち上がった老婆は地べたに頭をすりつけた。
土下座する老婆をうっちゃって、その場を立ち去りたい衝動に、凶羅はかられた。
すこし、沈黙する。
灯火がめぐる。
「・・・わかったぜ」低く短く、凶羅は答えた。
「あ、ありがとうございますだァ」老婆が顔を上げた。「さ、どうぞ、せまくて汚いうちですが、中に入ってくださいませなァ」
2
翌朝。
凶羅は、老婆の家の客間で目覚めた。
息子のものだという寝間着を、身にまとっていた。
しかし、普通サイズのものなので、凶羅の巨体をおさめきれない。
「ああ、目が醒めましたかなァ」老婆が、替えの服を持って現れた。「おはようございますだ・・・さァさどうぞ、ヒゲ源の所から借りてきました。着替えてくだせえまし」
差しだされた服は、Tシャツとジャージだった。しかし、そのサイズは凶羅の体にぴったり、いやそれ以上のものだろう。
これを着る巨漢が、この漁村にいるのだろうか。
「いま、朝飯を持って参りますからなァ」布団を片づけながら、老婆が話した。
自分を見つめる視線に気がつき、凶羅は振り返った。
客間の入り口、廊下との境目に、ランドセルを背負った少年が立っていた。
少年は、柱の陰からそっと、凶羅をうかがっていた。
「これ、シゲっ! お坊さんにご挨拶せんかァ」部屋を出がけに、老婆がいった。「・・・すみませんなァ。孫の、繁でございます」
繁は、老婆が来るとその背中に隠れ、やはり凶羅を見ていた。
「シゲ、早く学校サ行って来い」老婆が話した。「今日は父ちゃんと母ちゃんの一周忌だで、まっすぐ帰って来るんだぞぉ」
繁は、老婆にうなずいてみせると、廊下を駆けだし、外に出ていった。
凶羅のいる部屋の、サッシの開け放された縁側から、坂道を下っていく繁の姿が見えた。
「・・・さっきのが、セガレ夫婦の一人息子ですだァ」朝食を出しながら、老婆がいう。「あいつが戻ってきたら、お経をあげてください・・・その間に、服を洗わせてもらいますからなァ」
「服・・・法衣をか?」凶羅は、廊下の奥、先ほどからガコンガコンと音を立てている方を見やった。「洗っているのか?」
「昼には乾くと思います。それから、繕いもしますでなァ」
「う・・・」
漂泊露営の暮らしである。法衣を洗った記憶が、思い出せない。
それもさることながら、
凶羅は、着ているTシャツを見やった。
凶羅の体格よりわずかに大きいが、サイズに不便はない。
ただ胸元に、可愛らしい親子パンダのイラストが、描かれているというのが・・・。
しかし、凶羅はそれ以上は何もいわず、朝飯にかぶりついた。
「こんなもんしか無くて、すみませんなァ・・・それからこれはァ、後で飲んでください」
「これは・・・?」凶羅は、前に差しだされた紙袋に入った薬に目をやった。
「痛み止めでございますだァ」老婆が答える。「夕べから、ときどき、胸を押さえて苦しそうにしてましたからァ・・・」
「チッ」凶羅は舌打ちしたが、そのまま、薬を受け取った。
3
仏壇の前に、三人が座る。
前に、数珠を手にした凶羅。
法衣が乾かないので、Tシャツとジャージのままだ。
その後ろに、老婆と、学校から帰ってきた繁の二人。
凶羅にとって、仏前の誦経は久々だった。
光覇明宗の法力僧として、長く、妖退治に奔走してきた。
そして、仏の道を忘れて殺戮に溺れ、破門された身である。
仏に対する祈りを、凶羅は忘れていた。
うろ覚えの経文を唱え、その場をしのいでいく。
必死で記憶をさぐり思い至ったのは、幼き日の誦経院での修行だった。
仏壇の前には、『お役目』にして育ての親、日崎御角が座す。
そのうしろで、凶羅と、弟の和羅が並んで正座し、御角の唱える文句を復唱していく。
凶羅は、弟の右に座る。
視野の端に、弟の姿が・・・火傷の跡が残る右半面が入る。
覚えたての法力で、凶羅がつけた傷だ。
見まいとするほど、気にかかってくる。
読経が、止む。
凶羅が、立ち上がる。
そのまま、仏壇に背をむけ、誦経院を飛びだす。
”凶羅!”御角の声が背後に響く。
だが、凶羅は、引き返さない。
”待ってよ、キョウジ兄ちゃんっ!”
振り返ると、カズオが・・・弟が、凶羅の後を追ってくる。
”バカッ、ついてくんなよ!”
凶羅は、足を止める。
蝉の声が、あたりにうるさく響いていた。
”戻ろうよ、兄ちゃん”弟は、ゆっくりと、凶羅に手を差しだす。
その手を、凶羅は、振り払った。
それから、弟の胸を、力いっぱい突き飛ばす。
勢い余って、自分も一緒に、弟の上に倒れ込む。
下敷きにしないよう、反射的に手でかばう凶羅。
弟の火傷が、間近になる。
オレが、つけた・・・傷。
”ついてくんなよ! いいな”
凶羅はひとり起きると、弟を置き去りに、そのまま走り去った。
「・・・もし、どうされましたかァ」
老婆の声に、凶羅は我に返った。
額から、あぶら汗が流れている。
しばらく、沈黙が続いたが、読経を再開した。
4
読経が、終わった。
正座をといた繁が、終わると同時に老婆に尋ねる。「ばあちゃん、港へ行っていいか?」
「今日は舟霊様の日だで、海にゃ出んでねえぞ」と、老婆が答えるやいなや、繁は縁側から庭へと駆け出し、たちまち走っていった。
「まあまあ、気の早い・・・」老婆があきれながら、凶羅に向き直った。「すいませんでしたなァ、坊さま・・・いま、お茶でもお持ちしますからなァ」
よっこいしょ、と立ち上がった老婆は、しばらくのち、茶を持って戻ってきた。
「すいませんなァ、大した茶菓子がございませんでぇ」湯呑みを置きながら、老婆がまた言った。「お坊さまのお口に合いますかどうか・・・」
お茶請けとして差しだされたのは、皿に山と盛られたチョコレートだった。
透明なセロハン紙に包まれた小粒のチョコレートで、動物の絵が刻印されている。
凶羅は、黙って湯呑みに手をのばした。
それから、チョコを一粒、つまむと、セロハンを開いて口にほうり込んだ。
「すいませんなァ」老婆が、また申し訳なさそうにつぶやく。
凶羅は口をきかない。もうひとつ、チョコを食べる。
「・・・ちょうど、一年前の今夜でございました」老婆が語る。
老婆の息子とその嫁、つまり繁の両親は、二人で漁船に乗っていた。
夫が船長、妻が漁撈長である。
一年前の夜。その夜は「舟霊様の夜」と呼ばれていた。死者の魂が帰ってくるとして、村では漁をしないのが習わしとなっていた。
しかし、不漁続きで資金難に陥っていた二人は、禁を破って夜の海に出た。
そして、帰らなかった。
懸命の捜索にも関わらず、遺体は上がっていない。
村人達は、死者が二人を仲間に加えたのだろうと噂した。
それ以来、繁は暇をみては港に行き、ひとりでずっと海を見つめるようになったと、老婆は語った。
凶羅は何も言わなかった。
「婆さんやァ」庭先から、男の声がした。
「おや・・・ああ、駐在さん」老婆が、縁側に向かう。
声の主は、警官の制服を着ていた。突き出た前歯と細い顎が、ネズミを連想させた。
駐在は、繁を連れていた。二人して、自転車を押して坂道を上ってきたようだ。
「シゲがよぅ、また、いじめられとったァ」あちこちに傷つけた繁を引き渡した駐在は、凶羅に気がついた。「あ、お客さんかァ?」
「旅の坊さまだァ、セガレの一周忌だで、供養してもらっててよぅ」老婆が答える。
駐在が、じっと、凶羅を見つめる。
凶羅が見返すと、いきなり、その顔に驚愕の表情が浮かぶ。
駐在は「ま、ま・・・またなァ」と言い残し、自転車に飛び乗り、坂を下っていった。
「どうしたんだァ」首を傾げた老婆だったが、そのまま、繁を連れて玄関に向かった。
「ねぇばあちゃん、チョコレートはァ?」玄関の方から、繁の声が聞こえてきた。
5
「悪いなァ、シゲ」老婆が繁を諭す声が、凶羅の耳に入る。
「坊さんをおもてなししなけりゃならねかったからなァ・・・ごめんなァ」
「えっ・・・今日のおやつはチョコレートだって言ってたじゃないか、ばあちゃん」
「ごめんなァ。また、明日買ってきてやるから、勘弁なァ・・・」
「えー、だってェ・・・」
むずかる繁の声に、凶羅は舌打ちし、そのまま庭に目をやった。
物干し台で、法衣がはためいていた。
潮風が部屋まで、吹き込んでくる。
またひと粒、チョコレートを口にほうり込む。
ふと、人の気配を感じて振り返った。
繁だった。客間入り口の襖の陰から、じっと、中を窺っている。
その視線が、凶羅の手元のチョコレートに注がれている。
「何だよ、小僧」凶羅が、繁を睨む。
繁は、返事をしない。
凶羅は、声を荒げた。「何だって聞いてんだよ!」
びくッ、と、繁の体が震える。
その顔がゆがみ、眼に、涙があふれてきた。
その涙がこぼれると、繁がしゃくりあげた。
「うるせえな! ビービー泣いてんじゃねえ!」泣きだした繁に、凶羅が怒鳴りつけた。「泣いてるだけじゃどうにもならねえんだよ、甘ったれるな!」
その言葉に、繁は息を呑んだ。嗚咽が止まる。
「ケッ・・・ガキが」凶羅は置かれたチョコレートの山を、手で指し示した。
「欲しいんだろ?・・・なら、取りに来い!」
繁が、少しずつ、凶羅に近寄る。
喰われるんじゃないかと、警戒しているのだろう。
そのままそっと、震える手を、チョコレートにのばした。
「なんだ・・・やればできるじゃねえか」凶羅は、チョコレートを鷲掴みにすると、繁の手のひらに握らせ、残りをポケットに詰め込んだ。「ほら、持ってけ」
驚いた顔の繁は、その場で一粒つまみ、食べた。
それから、手に握ったひとつかみを、凶羅の手元に戻した。
「くれるってのかよ・・・フン」鼻を鳴らした凶羅は、そのまま服のポケットにしまう。
そして、「うめえか」と訊ね、すぐさま後悔した。
・・・らしくねぇぜ、凶羅よ・・・。
その思いも知らずに繁が、チョコを食べながら、微笑んだ。
「チッ」凶羅はまた、舌打ちした。
そのとき。
家に向かう坂道を、一団の男達が登ってくる。
先頭に、あのネズミのような駐在がいるのを、凶羅は見た。