からくりサーカスオリジナルストーリー
「島原傀儡舞〜元治二年・払暁〜

 

 その4 

 

「……なぁに見とれてんだい、源さん」

「……あ?」

「そうそう。さっきから黙っちゃってよぉ」

 井上の、その背を原田は軽く叩いて、云った。「ははぁ、さてはあんたも奥さんにイカれちまったな」

「な、何を云う……わ、わしゃそんな……」

 あわてて目を伏せる井上だが、何を見ていたかはすぐ察しがついた。

 を注いでいたアンジェリーナが目を上げた。「何か?」

「わ、わしは別に……」井上はかぶりを振った。「だってその……正二先生の奥方だろ」

「奥方じゃなかったら、どうだってんだい?」

「お、お前らなぁ……!」

「隠さなくたっていいんだぜ」藤堂が笑った。「俺達もあの笑顔でやられたんだからよ」

くだ……ちきしょうめ、正二先生なんかの奥方にしとくにゃ勿体ないよな」

「原田君、『なんか』とは失礼だな」正二郎が云う。

「あら、せっかくめてくださってるのに」

 アンジェリーナが、笑った。

 この笑顔か。

 原田と藤堂、そして井上の三人が、アンジェリーナに見とれている。

 正二郎もこの、妻の優しい微笑が好きだった。

 長崎丸山の遊廓で初めて逢ったとき、彼女の心の陰が、綺麗すぎる笑顔を作っていた。

 正二郎との暮らしが、彼女を変えた。

 微笑だけではない、表情というか振る舞いに、あたたかさが芽生えた。

 これまでの彼女の人生が、どのように殺伐としていたものか、彼は聞いている。

 その彼女を、自分が変えることができたのか。

 そして……たぶん自分も同じくらい、彼女に変えられているのだろう。

 それが、夫婦というものだ。

「まぁ……井上先生は、こう見えて初心ですからなぁ」

 藤堂が云った。

「ここの奥さんに限らず、美しく飾った島原祇園たちに慣れてないんですよ」

「源さん、もしかして……島原は初めてじゃありませんか?」

「何を云うか、若先……近藤先生のお供で来たことはあるぞ」

 井上は、それから胸をそらして、こう続けた。「二度ほどはな」

 原田と藤堂が顔を見合わせた。

「それじゃ井上先生、馴染みの女などはいなさるんですか」

「いや……そういうのは、まだ……」

 二人は、今度は首を振った。

「ったく……総司といい、天然理心流のお歴々は奥手でいらっしゃいますな」

「近藤局長だって天然理心流じゃぞ。左之さん」

特別だ。源さんや総司の事を云ってんだよ」

「しかし、わしはどうも……」

 と云いかけて、突然、井上は真顔になった。

「そういえば、実は、前から気になっとったんじゃが」

「はっ?」

「島原では、女は買えぬのかね?」

 沈黙。

「……はい?」

「……源さんっ!」

 原田と藤堂、この二人が同時に口を開いた。

「ん?」

 井上にとっては予想外の反応だったようだ。

 訝しげに首を傾ける。

 だが、

 一同の傍らに腰掛けていたアンジェリーナの存在に気がついて、彼は取り乱した。「いやあの奥さんっ、これは……とんでもないことをわしとしたら……」

「どうぞ、私はお気になさらずに」アンジェリーナが笑う。「では、私はしばらく席を外しましょうか」

 彼女が立ち上がった。

 そのまま、奥の座敷へ姿を消した。

 取り残された男たちが、
 ほとんど同時に湯呑みに手を伸ばした。

 表通りを駕籠屋が駆けているようだ。

《えっほ、えっほ》という掛け声が前を通りすぎ、小さくなっていった。

「……あんたも恐れを知らねぇな」長い沈黙の後に、藤堂が口を開いた。

「面目ない」井上が頭を掻いた。「じゃが、遊んだとて芸妓と寝るわけじゃなし……遊廓や岡場所ともだいぶ違うようでな……」

「まあ、江戸で云うと……吉原ってよか両国辰巳柳橋、に近ぇのかな」

 頭を捻りながら応えたのは原田だった。「少なくとも表向きはな、この島原は歌舞音曲を楽しむための所なんだそうだ」

「歌舞音曲……では、芸者かね」

「芸者とも違うんだよなぁ」と、藤堂。
「島原遊女にもね、
太夫、
天神、
囲、
端女郎
と位があんだよ。
 吉原じゃ花魁が一番上だが、それが島原じゃ太夫ってことになるな」

「それじゃ、島原には花魁はおらんのか?」

「ああ。覚えとくといいぜ」藤堂が続けた。「しかも、ここの芸妓たちは歌や踊りどころか和歌や書画、詩吟にも通じてるからな。お公家の姫様もかくや、ってのが多いんだそうだ」

「さすが王城の地、雅じゃのう……」井上がうなずいた。

「まあ、あくまで表向きはだ」

 横から口をはさんだは原田だった。
近藤先生てみろよ、源さん」

「なるほど、祇園や島原の女を何人も妾にしておるのう」

「その通り。つまり、金と位と心意気がものを云うわけさ」

「だから源さん、あんたもその道を近藤先生に指南してもらやいいんだよ」

 局長、近藤勇。

 正二郎は、幾度か壬生の新選組屯所に出入りしている。

 その際、行き歩く姿を見たことはあったが、まだ、正式に対面したことはない。

 池田屋の一件以来、新選組を見る目は大きく変わった。

 有象無象浪士団の頭目と見られていた近藤も、
今は佐幕勢力の一翼として精力的に各地を闊歩する多忙な日々を送っていた。

「しかしどうも……わしはなぁ」

 井上が頭を掻いた。

 おそらくそれが、この男の癖らしい。

「金や力にあかせて女を抱くというのはどうも……好いた惚れたを金で買うというのはなぁ……

「んな事云ってっからその歳まで一人なんじゃねぇか、源さん」

「その歳って……こら、わしゃまだ三十七じゃ」井上が反論した。

 三十七才?

 正二郎が井上を窺った。

 沖田総司は確かに《おじいちゃん》と呼んでいた。

 その様に気づいたか、

ほら源さん、正二先生が驚いてるじゃねえか」

 原田が突然笑い出した。

「先生もそんなびっくりなさらねぇでくださいよ」

「い、いや私は、そんな……!」

 正二郎は、つい、目を逸らした。

 自ら白状したようなものである。

「先生、隠すことはありません」藤堂が、その色白の面に微かな笑いを浮かべた。
どうても四十いや五十は過ぎてるでしょう?……」

「誤魔化そうたっていけませんぜ」原田が続く。「正二先生は嘘をつくのがヘタクソだからねぇ」

「いえ……だから、その……」正二郎は口ごもった。

 それから、頭を下げた。「すみません」

「いいですよ。どうせ爺ぃ顔じゃわい」井上が唇を曲げた。

 顔こそ笑っていたが……気にしているのだろう。

 深く、息をついた。

「まぁ、でも……井上さん、そう落ち込まないでください」

 正二郎は井上に向き直った。「私が妻を娶ったのは、三十六の時でしたからな」

「三十……六?」

 井上が聞き返した。

「そうです」

「そりゃあ本当かね? 三十六で、の、お美しい奥方を……?

「本当です」

 本当だった。

 ただし、二十三年前の話であったが。

「いやあ先生、に違わぬいい御方でいらっしゃいますなぁ」

 井上が顔を上げた。

 そのまま正二郎の膝に詰め寄る。
つまり、このわしもまだまだ花も実も咲かせられる、ということですな。うんうん」

 自分でうなずきながら、井上は、原田らを一瞥して続けた。

「今に見ておれよ。お前らが涎垂らして羨ましがるような、色白の若い京娘を嫁にして……」

「はいはい」

「こら藤堂君っ、聞き流しおったな」

 その時。

「お邪魔します」

 障子の向こうから声がした。

 全員が振り返る。

 アンジェリーナだった。

 

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