からくりサーカスオリジナルストーリー
「島原傀儡舞〜元治二年・払暁〜」
その5
「ところで、今日は皆様お揃いでどうしたのですか?」
アンジェリーナは新しい茶を用意していた。
「えっ、原田君の診察じゃなかったのかね」正二郎が意外そうな面持ちで口を開いた。「お前が診ていてくれたんだろう?」
「いいえ」と、アンジェリーナが笑う。「正二先生はいますか、とお訪ねになってそれからずっとお話しをしてましたわよ」
「そりゃいかん、さっそく診療を始めないとな」
「いっ、いや……そいつぁまた今度でいいすよ」
手を振りながら、原田がアンジェリーナの淹れた茶を取った。「旦那が戻っちゃしょうがねぇや」
「後延ばしはよくないぞ、悪化したらどうするんだ」
正二郎は原田と向かい合った。「さあ、胸を見せて」
「だから先生これは……」原田が顔をしかめた。「へへっ、もう勘弁してくださいよ」
「子供じゃあるまいし治療を怖がることはないだろう」
「やだなァ先生……」
「左之さん」と、口をはさんだのは藤堂だった。「先生はね、あんたの軽口を信じ込んでんだよ」
「げっ……」
湯呑みを置いて、原田は手をかざす。「冗談、さっきのぁ冗談ですよ!」
「冗談?」
「だから云っただろ? 正二先生にこの手の冗談は通じねぇって」藤堂が横から云う。「こいつはね先生、挨拶がわりの冗談に仮病を使ったんですよ」
「え……なんだ、そうだったのか?」
正二郎は腰を退いた。「病気じゃなかったのか」
「すんません先生」原田が頭を下げた。「ほんと、診療ン事になると夢中なんだねぇ」
「じゃが……あれを真に受けるのもどうかと思われますが。先生」井上が云う。
一同の視線が、正二郎に集まった。
「まさかあなた、本気で信じてらしたの……?」
「……いや、」正二郎が反論する。「私も最初から冗談だと思っていたよ」
たじろいだが、重ねて云う。「本当だぞ」
「……ウソ、でございましょう? あなた」
口を開いたのはアンジェリーナだった。
「やめときなさいよ、正二先生は嘘がつけねぇんだから」原田が続く。
「……」
応えて云うかわりに、
正二郎は黙ってうなだれた。
指摘のとおり、本気で信じていた。
よく、妻にも呆れられる。
一同が笑う。
「まあ、非番の時間つぶしもあるんすがね」
藤堂が云った。
「……ほんとの用はね、先生を呼びに来たんですよ」
「私を?」
少し考えて、正二郎は藤堂に訊ねた。「往診か」
「違いますよ、角屋ですよ」
「角屋?」
《角屋》は、島原でも指折りの揚屋である。
揚屋、それは芸妓と遊ぶための店である。
揚屋で宴席を開き、置屋から芸妓を呼ぶ。
島原には大小数十軒の揚屋があるが、中でも角屋は歴史が古い。
新選組ともゆかりのある店であった。
「……つまり」正二郎はまた考えて、云った。「患者は角屋にいる、そういうことだな」
「先生先生っ、診察とか往診とかじゃないんですよ」
「ほら見ろ平さん、今度は俺の云ったとおりじゃねぇか」
原田が藤堂に云うと、正二郎の顔を覗き込んた。「先生、やっぱり忘れてますね?」
「えっ?」
「えっ、じゃないでしょう。今夜の宴は先生がお客ですよ」
「私が、か?」
正二郎は怪訝な顔で妻を見た。
アンジェリーナも不思議そうな顔をしている。
そして、思い出した。「……ああ!」
「そうです、こいつの」と、藤堂が顔の傷痕を撫でる。「御礼ですよ」
誘いは、確かにあった。
だが、去年の秋のことである。
昨夏の池田屋事件の折、暑気あたりで隊士の半数が動けなくなった。
近隣の医者が間に合わず、屯所に詰めて診療にあたったのが正二郎であった。
治療のメドがたち、ようやく引き揚げようとしたとき、
今度は、池田屋襲撃から帰ってきた一団と遭遇した。
瀕死の者が他に運ばれていたとはいえ、重軽傷者は十名近い。
その中には、斬り合い中に昏倒した沖田総司、そして額を割られた藤堂平助もいた。
結局、朝まで帰れなかった。
……その時の礼に、と持ちかけられていた招待だった。
「ま、お忘れに
なられたのも仕方なかろう」井上が云う。
「そうだな先生。長州征伐やら江戸行きやらで延び延びになってたしな」
「別にいいんだがな」正二郎は頭を掻いた。「もう半年以上も前のことだし」
「とにかく若先生がね、島原に暮らすというその名医にぜひ一献と云うてましてな」
「名医とはおそれいるね」
「先生だって、近藤局長にお会いしたことはないんでしょ」
正二郎は首肯した。
遠目に見た姿かたちを、彼はもう一度思い出した。
「新選組の幹部もけっこう揃うんじゃよ」
「永倉君と山南さんも来るぜ。二人は知ってるだろ?」
「ああ」
「それにこんど江戸から来た連中……江戸で北辰一刀流の道場開いてた伊東ナントカ先生ってのがいやがんですがね」
「伊東甲子太郎先生だ」藤堂が云った。「参謀の名前くらいいい加減覚えてくれ、左之さん」
「おっと、同門の平さんの前で失礼した」
と応えながらも、原田が口を歪めた。
そして、湯呑みを手にして、云う。
「その同門の前で悪ぃけどよ、俺ァあの連中はどうも好きになれん」
またか、と思ったのか、井上が顔をかすかにしかめた。
「アタマが固くていけねぇや……口を開けばやれ北辰一刀流がどうの勤王攘夷の志がどうとか、国事だとか政治だとか難しいハナシばっかでよ」
「それは違うよ左之さん、天下を見なければ時代に取り残されるぞ」
「俺は屁理屈が大ぇ嫌えなんだよ」原田が応えた。
「天下国家をどうこう抜かしながら御所に火を放つ連中がいる。
それを取り締まるのが俺達の仕事だろ? なっ、先生よォ」
三条小橋の池田屋に不逞浪士を襲撃したのが昨年の六月のことである。
激昂した長州藩が御所に兵を向け、京一帯が戦火に包まれたのもまだ記憶に新しい。
「そんなんじゃ駄目だよ左之さん。山南さんだって云ってんだろ? 新選組は、新しい時代を担う存在になんなきゃならねぇ……な、先生だってそう思うだろ」
正二郎は曖昧に笑った。
「山南さんか……」
小さな声で云ったのは井上だった。
「山南さんがどうした、源さん」
「いやぁ、なんだか……」
そこで、声がこもった。「うまく云えんが……最近、様子が違うようでなぁ……」
「そうかぁ? 気のせいじゃねぇのか」
「うむぅ……」
言葉が途切れた。
窓の外から、誰かの笑うのが聞こえた。
「……しかし、小難しい理屈ばっか並べ立てやがって」原田は首を振って、藤堂に向かって云う。
「平さんよォ……あんた、頭やられてからどうかしちまったなぁ」
「ああ。このとおり良くなったぜ」そう笑ってから、もう一度、藤堂は自分の傷痕をなぞった。「あんたもどうだい、左之さん」
「けっ」原田が唇を曲げた。「源さん、あんたはどう思う」
「わしゃ難しいことはわからん」井上が素っ気なく応えた。「わしゃ、花魁相手に酒が飲めればそれでいい」
「だから源さん吉原じゃねぇんだ、島原に花魁はいねぇんだよ」藤堂が続く。「まあいいや、今夜は飲むぜ……なぁ左之さん」
「当たり前よ」原田がうなずいた。
そして、いっせいに正二郎を見た。
「そろそろ準備してくださいよ先生。暮れ六ツですからね」
「う、うん……そうか」正二郎はうなずいた。
「という訳で奥さん」と、原田が話しかける。「今宵はご亭主を借りてきますぜ」
「ええ、どうぞ」アンジェリーナが応えた。
「今夜はたいへんですよぉ」藤堂が笑った。「先生が来るときたら、島原界隈の妓どもが放っとかねぇからね」
「奥さん、今夜ご主人は浮気するかもしれませんぜ」
「そうそう。明日ン朝に戻っても、あんなり怒んねぇでくださいね」
「お、おい……君たち!」
正二郎は声を発した。
それから、アンジェリーナを窺う。
彼女は、静かな微笑みをたたえ、正二郎を見つめていた。
その瞳に、一片の曇りもない。
二十数年前、長崎で夫婦になったあの頃と、同じ瞳。
弁解は無用だった、な。
「なるべく早く戻ってくるよ」それだけ、正二郎は云った。
「ええ。待ってますわ」
アンジェリーナは静かな微笑みのまま、応えた。
だが、
二人が見つめあうこの家では、時が、止まっていた。
「かーっ、あんたら見てると体痒くなってきやがる!」
原田の叫びが空気を破った。「ねぇ正二先生っ、薬ねぇか薬!」
「痒み止めか……わかった、すぐ調合しよう」
「よしとけ左之さん、さっき冗談が通じねぇと云ったばかりだろう」
外の喧騒がしだいに増してきた。
そろそろ、日暮れ時だろうか。