からくりサーカスオリジナルストーリー
「島原傀儡舞〜元治二年・払暁〜

 

 その7 

 

 が進むとともに、夜もまた深まる。

 立春を過ぎたとはいえ、まだ寒い時期である。

 庭を眺めながらの宴会には、まだ早いかもしれない。

 だが、火鉢がさらに持ち込まれ、熱燗の徳利が何本も運ばれる。

 外と中から温められるせいか、その晩集った客たちで、寒さを訴える者はいなかった。

「さあさあ、どんどんやってくれよ。先生」

 近藤は上機嫌だ。

 何度も同じ言葉で、正二郎に酒を勧めた。

 云われるたびに、少しずつ飲んだ。

 正二郎が一口猪口を舐める間に、近藤は次々とあおっていく。

「近藤さんっ!」芸妓にまとわりついていた永倉が、突如声を張り上げた。「やつ、やってくださいよ! あれ!」

 この男もすでに、相当の酒がまわっているはずだ。

 云って、彼は大口を開き、そこに拳固を入れる素振りを見せた。

本当ですよ、あのにね、この拳骨が入るんですよ。近藤先生は)

 かつて、沖田総司が話していたことがある。

 江戸の道場主だった頃、酒席で披露していた隠し芸だそうだ。

「あとでだ、あとでな」とあしらって、近藤は笑う。

 そして、

「さあさあ正二先生、どんどん飲んでくれたまえ」と、正二郎にまた酒を注ぐ。

 一口啜った。が、

「もっと、ぐーっとあけてください」

 近藤はかざした徳利を戻さない。

「あ、いや私は……」

「まあまあ先生、遠慮なさらずに」

 正二郎は酒に弱い。

 しかし、近藤の手は簡単に退くとは思えなかった。

 やむなく彼は酒を口に含み、そして、酌を受けた。

 少しずつ、少しずつ飲み下していく。

「いやあ、さすが正二先生。まさに噂に違わぬ、気持ちのよい御方ですな」

 一献かわしたい。そう原田からも伝え聞いていた。

「はあ」どう応えてよいかわからなかったので、ひとまず頭を下げた。

「いやいや」と、近藤はかむりを振る。「先の動乱の折の先生のお働き、この近藤、幾重に礼を申しても足りません」

 池田屋騒動から禁門の変に至る一連の事件を近藤は《洛陽動乱》と呼ぶ。

「いえ、私は何も……」と、正二郎が応えかけたとき、 

 近藤は威儀を正して、云った。「よく平助を……藤堂君を救ってくださいました」

「ああ……」云われて思い出した。

 正二郎は、離れて座る藤堂に目をやった。

 彼は、隣の隊士と何か議論をしているようだ。

 広い座敷で距離があったが、傷痕が目についてすぐにそれとわかる。

 ……池田屋事件では三名の隊士が即死、または数日後に死んでいる。

 壬生の屯所に運び込まれた負傷者のうちでも、額を割られた藤堂の傷が最も重かった。

 刀傷は頭蓋に達していた。

 正二郎は直ちに手術を始め、未明まで掛けて頭骨の接合と傷の縫合を施した。

「《誰であろうと患者の命は守る》……そうでござったな」

 そう云いながら近藤は徳利の中を覗き込む。「おぉい、酒がないぞ」

 すんまへんなぁ、と傍らの妓が酌をする。

「正二せんせぇ」

 声を掛けられて振り返った。

 初瀬という名の芸妓だった。位は天神である。

「お前……胸が苦しいんじゃないのか」

 今日の診察で胸の痛みを訴えたので、静養を指示したはずであった。

「ええ。センセの前やさかい、体中も熱なってしましたえ」

 そう応えながら、彼女は徳利を差し向けた。「どーぞ、先生も熱なっておくれやす

「それはいかん……」と云いかけたところへ、

「患者の命は守る」近藤が繰り返した。「たとえそれが朝敵長州であっても、ですかな」

 そう訊ねたのは近藤だった。

 口調は、あくまで柔らかい。

 そのまま彼は、芸妓に注がせた酒を一息に飲み干した。

「はい」

 正二郎は、躊躇せずに応えた。

 禁門の変の直後、実際、そうしたこともある。

 傷つき、敗残兵として島原に逃げ込んだ
長州藩士を何名も手当し、
洛外へ落とす手助けまでした。

 手にした猪口の酒に、燭台の火が揺れている。

 正二郎は、近藤の応えを待っていた。

「……うむ、そうですな」

 近藤が大きく頷いた。「それが医道というものでござるのですな」

 他愛ない世間話をした、というようだった。

「ええ」

 正二郎は、盃を口にし、一気に飲んだ。

さすが先生、見事な飲みっぷりですな

 近藤が手を叩いた。

 顔に微笑みが浮かんでいる。

 それから彼は、

「初瀬、酌をせい」

 と、正二郎に付き添う初瀬へと、猪口を持つ掌を伸ばし、云った。

近藤センセには悪うおますけどな」と、初瀬が応える。「うちはな、正二センセの物どっさかい、正二センセのお相手さしてもらいますえ」

「おう、そうか」近藤が、今度ははっきり笑う。「では、そうするがいい」

「ほな、近藤センセのお許しも出ましたえ」

 そう云うと、初瀬が正二郎にしなだれかかってきた。

 右肩から背中、腰にかけて体熱を感じ、正二郎は無意識に身を退いた。

「やんっ、避けんといてぇなセンセ」そうすると、初瀬はますます密着する。「センセはお客はんやで、うちがもてなさなあかんのよォ」

「いや……私は……」

「姐はんの事なら忘れなはれ」彼女の言葉が正二郎を制した。

の  
 
 の
 

 
 

 ら
 ん
 わ
 け
            でも、
あらしまへんやろ?」

「ぐっ……」

 思わず、言葉に詰まった。

 アンジェリーナ以外の女のぬくもりを知らぬわけではなかった。

 昨年の暮れだったか、折檻の水責めで体温低下を起こした遊女を、自らの体で温めた。

 女が蘇生し、冷え切っていた体に生気が戻ったあの時の感覚と感動とを、正二郎は昨日のことのように思い出せる。

 その前は……と考えていたら、

「せぇんせ、ご存じ?」

 気がつくと、初瀬は、正二郎の耳元に唇を寄せていた。

 そして、囁くように云う。「島原はな、こないしてお酌するんが作法どす」

 猪口の酒を口に含み、正二郎に向かい座った。

 そのまま、

 「ん〜〜」

 と、その唇を、彼の口元に近づける。

「お、おいっ、初瀬……!」

「おおっ、こいつはいいねえ」

 めざとく見つけた原田が、手を叩いてはやし立てた。「さぁさセンセ、おひとつ、ぐーっっと」

「ちょっと、ちょっと待て!」

「安心しな、奥さんには黙っとくからよ」

「そういう話じゃないっ、だから止せと……」

 こんな作法は聞いたことがない、

 正二郎はそう続けようとしたところを、押し倒された。

 天井が、思ったより高い。

 それを塞ぐように、初瀬の体が覆い被さった。

 視界いっぱいに彼女の顔が広がった。

 開きかけていた唇が塞がれ、酒が、流し込まれる。

 人肌にぬくめられた液体が、歯から舌をたどって、咽喉へと浸みわたっていく。

 白粉の芳香が鼻腔をくすぐる。

 ……妻のものとは異なる、その薫り。

 妻のものとは異なる、女の、体の重み。

 沈黙。

「……うわ、目の毒じゃな……」

 と、井上がぼそりと呟く声が、正二郎の耳に届いていた。

 

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