からくりサーカスオリジナルストーリー
「島原傀儡舞〜元治二年・払暁〜」
その10
篝火が、燃えている。
揺れる炎に照らされた《臥龍松》が浮かび上がり、庭砂に描かれた波模様がゆらめいている。
庭の中央に《あるるかん》が立った。
縁側の端の方に、アンジェリーナが座る。
体を、少し庭の方に向ける。
両掌をかざす。
白い指先に嵌められた指抜きが動く。
結びつけられた糸が緊張する。
それを合図に、傍らの芸妓が楽器を奏で始めた。
胡弓の弦の上を泳ぐように、弓が動く。
啜り泣くような弦楽が始まった。
静かに、アンジェリーナは指を動かした。
《あるるかん》が身を起こした。
その右脚が、前に出る。
脚を上げすぎず、地面近くを《摺り足》で動く。
白い砂に刻まれた波模様に沿って、緩やかな曲線を描いて、前に出る。
足元の砂には、微塵の乱れもない。
ついで、左脚。
脚の動きに合わせ、上体をゆっくりとひるがえす、優美なターン。
調べが次第に高揚する。
小気味よい旋律が幾度も、音程やリズムを変えながら反復する。
《あるるかん》が、巨躯に似合わぬ緩やかさをもって、しかしよどみなく、踊っていた。
それは、舞踏と云うよりは無言劇(パントマイム)のように静やかに繰り広げられる。
「ほう」
隊士のひとりが感嘆の声をあげた。
「……ご覧よ永倉君、なかなかいい腰をしてるじゃないか」
「おやおや」隣の永倉が、すでに赤くなった目元を細くして、応えた。「一(はじめ)さんもなかなか助平でございますな」
その目は、アンジェリーナに注がれている。
庭先に向けて少し斜めに座る彼女の、背中から腰にかけての体の線が、着物の上にくっきりと浮かび上がっていた。
「ばか、人形のことだよ」一さん、と呼ばれた隊士はそう云い返した。
「えっ」
云われて、永倉は人形を注視した。
この男も、神道無念流の達人である。
「……なるほどね。一さんの云うとおりだ」彼はうなずいた。
重心がぶれず、足捌きに乱れがない。
「あれが人間なら相当の遣い手ですよ」
「そうだろう」
「だけどお二人さん、妓(おんな)の方もいい腰してますよ」
別の隊士が割り込んで、二人に酒を注いで云った。
「そのとおりだ」永倉が応えて笑った。
「混ぜっ返しちゃ困るよ松原君、我々は人形の話をしてるんだ」
「あっはは、斎藤先生は女が苦手ですからねぇ」
「こらっ」
永倉は、アンジェリーナに目をやった。
見れば見るほど、美しい。
「……はあああ」
彼の後ろで、松原と呼ばれた男がため息をついた。「あれが亭主持ちとはなァ」
それを受け流して、中身の残る銚子を一本手に取った。
猪口に移しもせずにまるごと飲み干すと、永倉は、正二郎に目をやった。
正二郎は、息を呑んでいた。
曲には、覚えがあった。
彼の体に流れる《生命の水》のもたらす記憶か、それとも、アンジェリーナがかつて聴かせてくれたものか、古い、西洋の曲だったと思う。
だがそれも、些細なことだ。
《あるるかん》に、こんな動きができたとは。
その戦闘力を高めるため、撃剣の型、足運びをアンジェリーナに教えたこともある。
京洛に暮らす時計師などからくり職人と交わり、彼らの繊細な技術と独特の発想を《あるるかん》の機巧に応用したこともあった。
それがまさか、このような傀儡舞として集成するとは、彼には思いもよらなかった。
アンジェリーナを見た。
彼女は、相変わらずの無表情で人形を操っている。
両掌が宙に円を描く。
すると、細い繰り糸が篝火を反射して、きらめいた。
白粉を塗った頬が、紅く照らされる。
そこで、
胡弓の奏でる節回しが、変わった。
同じ旋律だが、明るさと速さが加わって、途端に軽快な調べになる。
それに合わせるように、黒衣の傀儡がステップを踏み始めた。
彼はその足元に目をやった。
跳ねるように動く《あるるかん》の脚は、ぶれも乱れもせずにまったく同じ所を踏み続ける。
旋回する。
何度も、何度も。
爪先だけで立った枯山水の白砂に、新たな波紋が描き出されていた。
彼はもう一度、それを操るアンジェリーナに目を向けた。
その傍らで、
初瀬がまた一杯、猪口を飲み干していた。
「初瀬はん、ちょっと飲み過ぎどすえ」隣の芸妓が眉をひそめる。
「ふん、何さ……」
肌の赤みが、化粧を透かして浮いて出ていた。
焦点が合わなくなりはじめた眼で彼女は、正二郎を見た。
彼は初瀬の視線に気づかず、庭先を注目している。
その視線の先へ、彼女は、踊る人形と、それを操るアンジェリーナに目をやった。
「わかっとるわ」
そして、誰にも聞こえぬほど小さな声で、云った。「あの姐はんにかなうわけ、ないやないの……」
そこでもう一度猪口を口に運び、中身がないのに気がついた。
「ふんっ」と、彼女が鼻を鳴らす。
すっ。
と、銚子が差し出された。
「飲めよ」原田だった。
「原田はん……」
応えて、猪口で受けた。
酒が、注がれる。
初瀬は、原田に顔を向けた。
大柄の原田も細い眼のまわりを赤く染め、大きな口を開け、白い歯を見せた。
初瀬も、口元に微笑みを浮かべかけたとき、
「……まあ、気を落とすなってよ。正二先生に相手にされなくってもよ」
最初、彼女は応えなかった。
原田が続けた。
「しょうがねぇや、おめぇじゃあの奥さんにゃ到底敵やしねぇからな」
彼女は、無言のうち酒をあおってから、云った。
「……大きなお世話どす」
そのまま、銚子をひったくり、原田の猪口に酒を注ぐ。
溢れる。
「おいおいっ、勿体ねえっ!」彼はこぼれる酒に唇を寄せた。
「うちを口説かはる気なら、とんだお門違いどすえ」
「けっ、新選組の原田様をなめるなよ」原田が一気にあおった。「おめぇなんぞ口説くまで落ちぶれちゃいねぇや」
「あぁら? ほな原田センセは、他のどなたをお口説きにならはってん?」
「お、俺か?……俺はなっ」と云いかけて、「……俺はな、向こうの方から寄って来るんだよ」
「おやおや原田センセぇ、すっかりお酔いにならはって」彼女が笑う。「居もせぇへん相手がお見えになるんどすなぁ」
「何を……!」と声を荒げたとき、
「静かにせんかっ」
低い声で一喝され、二人は同時に首をすくめた。
すぐ隣に近藤がいたことを、忘れていた。
原田と初瀬はばつが悪そうに、踊る人形に目をやった。
軽快に流れていた調べは、今やほとばしるほどの勢いとなっていた。
《あるるかん》のステップも、速さと力強さと増している。
隊士たちが、
正二郎が、
原田が、初瀬が、
そして近藤が、
皆、踊る人形を見つめていた。
不意に、
あたかもいきなり、というように、
音楽が、収束して、止んだ。
踊りが終わった。
アンジェリーナ、そして《あるるかん》が、深く、礼をした。
誰もが、何も云わなかった。