からくりサーカスオリジナルストーリー
「島原傀儡舞〜元治二年・払暁〜

 

 その13 

 

「うむ、気に入ったぞ!」

 近藤がアンジェリーナを手を差しのべた。「太夫、参れ。酌をせい」

 アンジェリーナが向かって座り、銚子を取ろうとするのを遮って、

「これ、ここへと申すに」

 と、近藤は自分の隣に手をやった。

「いえ」と、アンジェリーナは云う。「そこは、深雪太夫のお席でありんすから」

「だから!……」と云いかけて、近藤は、隣に座る芸妓に目をやった。

 深雪太夫。

 近藤の愛妾と伝えられる妓であった。

「……まあいい。そこで」近藤は云った。

 近藤の正面。

 つまりそこは、正二郎の斜め前ということになる。

 正二郎は、彼女に目をやった。

 蝋白色の肌が、燭台の灯に照らされて、ほのかな赤みを帯びている。

(アンジェリーナ、おまえ……)

 どうして、ここにいるのか。

 口に出しそびれた疑問が、頭に渦巻いている。

 その意図は、わからなかった。

 ただ……

 こんな時に、こんな事を考えるのも何かと思うが、

 正二郎は、彼女を美しいと思っていた。

「何をニヤついておられるか、先生」

 近藤の声に我に返る。

「いやあの、これは……」

「まさか、貴殿もこの女に惚れたのではあるまいな」

 云われて、正二郎は咳き込んだ。

「しかしそなたには妻がおるそうじゃないか」近藤が続ける。「女房持ちが花魁に惚れてはいかんぞ」

 近藤だって江戸に妻子がいるはずだ。

 だが、自分の事には構わず近藤は語り続けた。
「第一な、こういうのは早い者勝ちだ。
 先に口説き落とし、契りを交わした方の勝ちだからな」

 云い終えると近藤は、アンジェリーナに向かった。

 胸をそらし、
威儀を正す。

 周囲の目が集まった。

 そして、こう訊いた。「その方、身請けするにはいくら出せばよいか」

「み、……身請けですかっ!」

 素っ頓狂な声をあげたのは原田だった。「近藤さっ……いや局長、そりゃまずいですよ。だって……」

「まずい? 何がまずいのだね、原田君」

だってね、その人は……」

「見目が異人とて心は大和撫子と変わらない、そうではなかったのか?」

「そ、そりゃそうなんですがね……」

 と、原田は口ごもったのを見届けると、近藤はひとりうなずいた。

「君は、この妓がこの新選組局長近藤勇の妾に相応しいとは思わんのかね」

め、か……け……?」と、口を開いたのは井上だった。

 箸先につまんでいた南瓜を器に戻す。

 ようやく話が見えたのだろうか、と正二郎は考えた。

「いやまずい、そりゃいかんよ若先生!」

「どうした、源さんまで」

「いやあの、それが……」彼もまた口ごもった。「とにかくそれはいけません、近藤局長」

「何だ、みんなしていったい……」近藤がつぶやいていると、

「畏れながら」

 と、アンジェリーナ本人が口を開いた。「それはできぬことにてありんす」

「なに?」近藤は意外そうに訊いた。「できぬとは何故だ、この近藤の何が不満だ」

「いいえ、近藤様に不満はありんせんが……」

 そこで彼女は口をつぐんだ。

 かすかに眼を動かし、正二郎を見た。

 自分がどんな顔をしていたか、正二郎にはわからなかった。

 そして、アンジェリーナはこう云った。「はたして、夫が何と申しんすか」

「なんだ、そんな事か」近藤は笑った。「夫の一人や二人この近藤が……」

 云ってからしばらくして……気がついた。「え……おっと……?」

「はい」

 広間が静まりかえった。

 誰かが、深くため息をつくのが聞こえた。

 永倉だった。

「……もぉ、飲めませんからね……」

 そう呟いた小さな声が、
静まりかえった広間に、
やけによく通った。
「これが、最後の、一口ですよぉ……」

「角屋っ! 角屋呼べ!

 沈黙を破ったのは、近藤の大声だった。「すると何か、島原では亭主持ちの花魁が居ると申すか、説明せい!」

「いやいや若先生」仲裁する気らしく、井上が割り込んだ。「島原にはね、花魁はおらんそうですじゃ」

「い・な・い?」

 近藤の眼が彼に向いた。「しからば何だ源さん、いないはずの花魁がどうしてここに居るかっ」

「だからそれがおらんのですよ」

「現にここに居るではないか」

「だからそれが……」

 またしても言葉に詰まった井上は、救いを求めるように正二郎を振り仰いだ。

 だが、近藤はそれに気づかず、

「ええい、わけが判らん!」

 天井を見上げると、一言、「喝!」と叫んだ。

 大きな口だった。

 あれなら、拳骨も入る。

「さぁさ近藤せんせ」見かねて、深雪太夫が銚子を差し出した。「うちをお忘れならはって、ひどい御方やなぁ」

「ああ」と呻くように応え、近藤は受ける。

 一気に飲み干し、息をついた。

 それから、

「遠野太夫っ」と名を呼んだ。「いったいどこの何者であるか、その方の、その……亭主というのは?」

 アンジェリーナは応えなかった。

 そのかわりに、井上と原田、藤堂ら幹部の視線、それから居並ぶ芸妓の視線とが、正二郎に集まりゆく。

 近藤も、ようやく、気がついたらしい。

 隣から、アンジェリーナと正二郎とをかわるがわる凝視した。

「亭主……? まさか……まさか……」

「思い出すなぁ、左之さんよ」
小声で藤堂が囁いた。
「正二先生がアンズ姐さんの旦那てわかったとき、あんた、あんな顔してたっけ」

「平さんだってそうだったじゃねぇか」

 

「あっちゃー……わしゃ、もう知らんぞ」
井上は酒をあおった。

 

「もう飲めませんよ、山南さん!」
永倉の甲高い声が響く。「この一杯、これが最後の一杯ですからね」

 

 

「正二先生、君は恥ずかしくないのかね!」

 鋭い声と同時に膳が叩かれた。

「いやしくも国事に奔走する尽忠報国志士たるものが、おのれの女房を花魁に働かせ、自分はその金でこのように飲み遊ぼうというのは、いったいいかなる了見かね、え?」

 ……いや、私は志士ではない。

 応えようとしたが、やめた。

 どこから応えるべきか。

 しかも、近藤は酔っている。

 正二郎は、ただ身をひそめるしかなかった。

 かたわらのアンジェリーナに目をやった。

 彼女の表情は変わらない。

「……今度こそ、今度こそが最後ですからね。もう飲めませんよぉ……!」

 永倉の独り言が続いている。

「どうでもえやないの」

 初瀬が割り込んだ。

 正二郎に体を密着させたのを振り払う暇を与えず、彼女は続けた。「センセな、奥さんと別れてうちと一緒になろ? な?」

「あっこら……」

「正二先生っ、聞いとるのかね!」

「はっ、はい……」

「いいかね、男というものはだなっ……こら、聞いとるかね! こっちきたまえ

「いやっ、それが……」

「ヤやなぁ近藤センセ。さっき正二センセはうちの物や云いましたえ」

「……今度こそ! 今度こそこれが最後ですからね……もう一滴も飲めませんよ!」

 店の者が火鉢の追加を持ち込んだ。

 春とはいえど、夜はまだまだ冷えるのだろう。

 

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