からくりサーカスオリジナルストーリー
「島原傀儡舞〜元治二年・払暁〜

 

 その14 

 

な、な……ひょっとして、怒ってるか?」

 前を歩くアンジェリーナは応えない。

 聞こえてないのか、と重ねて問おうとして、正二郎はやめた。

 夜も深まり、中之町の界隈を行く人々もまばらになっている。

「ようっ、色男!」

 行き会う町人体の酔客が、正二郎に声を掛け、歩き過ぎていく。

 宴は逃げてきた。

 角屋の集まりは一応散会となったが、飲み直そうと騒ぐ近藤らに頭を下げ、引き留めるのを半ば強引に振り切って、正二郎は角屋を後にした。

 まっすぐ家には戻らず、まず《香月や》へ向かう。

 アンジェリーナがとうに引き揚げているはずだった。

 家に戻る前に、事情を訊こうと思っていた。

 しかし着替え最中で、飛び込もうとして禿に止められた。

 待っていると、やがて、彼女は普段着で現れた。

 化粧も装具も髪型も、いつものままの彼女であった。

 店先で待っていた正二郎を見かけ、彼女はいっぺん

(まあ)

 という表情を浮かべたが、それきり何も云わぬまま、一人で店を出た。

 追って、正二郎も置屋を後にした。

 それきり、アンジェリーナは口をきかない。

 正二郎に顔さえ向けようとせず、彼の前を歩いていく。

 空気の冷たさは、酒を醒ますのに充分すぎた。

 すれ違う酔客たちが、彼女を珍しがるのか、二人を見て止める。

(あまり、いい絵じゃないな)

 後ろから付いて歩く正二郎は、少し胸を張ってみせた。

 言葉のないまま、家に戻った。

 灯りがともされていた。

「ただいま」

 アンジェリーナが声を掛けると、中から戸が開かれた。

「あらおカミはん、お早いお帰りどしたなァ」

 隣家の老婆である。よく、留守番を頼んでいる。

「ごめんなさいね、急にお願いして」

そない水くさいコト云わはらんと」

 言葉を交わしながら、入る。

 正二郎が続くと、そこで初めて老婆は彼の存在に気づいた。

「おやまぁ、正二せんせまで……」

 そこで彼女の言葉が途切れた。

 灯籠の明かりの中のその表情に、幽かな変化を正二郎は認めた。

「どうしました?」彼は訊ねた。

「どうもこうも……せんせっ、」

 と、老婆が応えかけたが、そのまま口をつぐんだ。

 彼に背を向けたままのアンジェリーナが、彼女を制したように思えた。

「……ほな、これでお暇いたしまひょ」

 老婆はそのまま、正二郎の脇をすり抜け玄関口へと急いだ。

 去り際に思い出したように立ち止まる。アンジェリーナを振り返って、

「あっ、患者はんな、まだお休みになりまへんのや」と告げた。

 患者?

 正二郎は訝った。入院患者はいないはずだ。

「そう」アンジェリーナはうなずいた。「ありがとうね。おサキさん」

 云われて、肯き返した老婆だったが、

「ぷっ」

 正二郎を見て、小さく含み笑いを漏らした。

「お、おい……」

 呼び止めようとする正二郎を振り切るかのように、そのまま足早に立ち去った。

 奥の間に上がる。

 それでも、アンジェリーナは口を開かない。

 いや、彼を、見ようとさえしない。

 行灯の火が、彼女と、彼と、部屋とを照らし出した。

「なあ……」もう一度口を開いたのは正二郎の方だった。

「やっぱり、怒ってるんだろ?」

「どうして?」

 彼女が口を開いた。「どうして、そのようにお思いになるのですか」

「う……」言葉につまった。

 云いたいこと、
 訊きたいこと、
 それぞれが、
 まだ酔いの残る頭の中を巡っている。

「だから、えーと……初瀬がな」つい、芸妓の名前を口にした。

「初瀬さんが?」

 唇に注ぎ込まれた酒の感覚を甦らせながら、続けた。「まさか初瀬がな、あんな風に……」

「あんな風に、と仰いますと?」

「えーと、だからだな……」

 云いかけて、気づいた。

 からかわれている。

 たぶん、そうだ。

 だが、どうしようもなかった。

「まあ……なんだ」

 正二郎はそこで一旦言葉を切った。

だがな、お前もお前とは思うぞ」

 頭の中で云うことを組み立てて、そして、続けた。「亭主の酒宴に女房が押し掛ける……いや、顔を出す、などということは……その……」

 ……押し掛けられて困る事をする方がよくない。

 云っておいてなんだが、分は悪いと思う。

 だから、
正二郎は最後まで云えなかった。

だが、

とにかく、

このままではいけない。

 そう思うと行動は早かった。

「なあ!」

 言葉に力がこもるのもわかっていた。

 アンジェリーナの背に手を掛けると、そのまま無理に振り返らせた。

「あっ……」

「とにかく、こっち見て話をしてくれんかっ」

 視線を逸らすように彼女が顔を伏せる。

 その両頬に掌を添えて、向き直らせる。

 澄んだ、大きな瞳だった。

 頬を抑えるせいで、やや垂れ目気味になっている。

 掌に冷たさを感じるのは、夜風にあたって帰ってきたせいか。

 怒らせたかと、思った。

 アンジェリーナの冷たい表情が灯りに浮かんでいた。

 彼女は、彼の顔を直視させられていたが、

「ぷっ」

 掌の下、頬が膨らんだかと思ったときには、

 破顔した、と呼ぶのが相応しい。

 正二郎が両手を放すと、たちまち彼女は身を折った。

 声こそあげはしないが、袖で顔を覆い、彼女は笑いに体を震わせていた。

「なっ、なんだ……?」正二郎が訊く。「何がおかしいんだ、えっ?」

「べっ……」

 揺れる息の下からアンジェリーナの声が途切れ途切れ、聞こえる。

「……紅が、ついてございますわ」

「べに、だとぉ……?」

 云われて、正二郎は顔をまさぐる。

 頬にねっとりとした手触りを感じた。

「鏡は!」反射的に、叫んだ。

「奥にございますわ」

 云われた方を探し、手鏡を見る。

 高頬。

 唇の脇。

 右目の上。

 明瞭に認められるだけで三箇所が、口紅で染まっているのを見て、



逆流する感覚に襲われた。

 初瀬だ。

 早々に座を離れたアンジェリーナと違い、
 別れ際まで絡みついてきた彼女の、唇の紅さが思い出された。

 そして正二郎はこの顔のまま、角屋を立ち去り、置屋を訪ね、島原の往来を歩いてきたのだ。

 記憶の中に、出会った人々の表情が次々と甦る。

(どうして……誰も、何も……!)

 体が、熱い。

 正二郎は慌てて何度も顔をこすった。

「ちっ、ちがうぞアンジェリーナ、これはな……!」

「紅は簡単には落ちませんわ、あなた」

 手拭いが、静かに正二郎の顔へと差しのべられた。

こすれば、顔じゅうに広がります

 まだ、その顔に笑みを残したままで、アンジェリーナが口紅を落としていく。

「お前も気づいてたのか」されるがままになりながら、彼は訊ねた。

「うふふ」

「うふふじゃなか」思わず、故郷の言葉が出る。

 手拭いを顔から離して、アンジェリーナが続けた。「笑いをこらえるのが大変でしたのよ」

ひどいなぁ」正二郎は云いかけ、気がついて「じゃ、それでずっとこっちを見なかったのか」 

「それもありますわ」

「それも?」

「ええ」彼女はうなずく。

 そこで、
 手拭いを二つ折りにしながら、
 正二郎の顔を見た。
「気を遣ったり、一生懸命云い訳をなさるあなたが……その……」

「その……何だ?」

「ええ、その……」

 彼女はいったん口を閉じたが、少しの間を置いて、続けた。「とても、可愛らしくて」

「ばかっ……」

 彼女を責める言葉は、それ以上続かない。

 正二郎は、苦笑するしかなかった。 

 アンジェリーナの掌が、再び、彼の顔に伸ばされた。

「まだ、残ってますわ」

 その掌に持った手拭いが、そっと、頬を撫ぜていくのを感じて、正二郎はいつしか眼を閉じていた。

 

おことわり:
 本章は「電力パッキン」の青山羊さんよりいただいたイラストから着想しています。
 素敵なイラスト&アイディアを頂戴しました青山羊さんに、この場にてあらためてお礼申し上げます。

 

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