からくりサーカスオリジナルストーリー
「島原傀儡舞〜元治二年・払暁〜」
その22
「……う、そ……」
そのかすれた声は、空気に溶け入るように消えていった。
「明里ちゃん、あのな……」
「なんで」明里は、初瀬の声も届いてないように、言葉を続けた。「何で、あン御方が、お腹召されなあかんの……?」
「明里、その話は後や」《香月や》が云い差すところへ、
「あの人は隊を脱走した」
皆の眼が、永倉に集まった。
精悍な顔立ちである。
常に陽気さがつきまとう、そういう男だった。
……暗い光……。
そう。感情を失った、暗い光を湛えた瞳が、ただ明里に向けられていた。
「ちょっ、永倉様」《香月や》が叫んだ。「なンも今、そないな話せんかて」
「切腹は明日だ」
置屋の言葉に応えて云ったのかわからない。永倉が続けた。
「永倉君」
正二郎が呼ぶ声にも反応がない。
「……どうして……」
永倉は呟きかけ、唇を閉ざした。
彼の肩が、足が、躯が震えているのに気がついた。
「永倉君」
もう一度名を呼んで、
正二郎は明里との間に割って入る。
「もういい、ありがとう」
「……先生……」
永倉の唇が動き、微笑を形作った。
表情だけで笑っている。
喉仏が幽かに上下した。
「……あの夜、
山南さんはここへ来たんですよ、ね……?」
かすれた声だった。
震える体から、声が、こぼれ落ちている。
「その話はよそう」正二郎は遮った。「君は混乱している」
「ええ、混乱してますとも」歯を剥き出して、永倉は笑ってみせた。
眼は、笑っていない。
正二郎の肩越しに、その視線が明里に向く。
そして、言葉を続けた。「山南さんはな」
「永倉様っ!」
正二郎より早く、アンジェリーナの声が響いた。
「お前に止めてほしかったんだ」
間が生まれた。
物売りの声が、遠くに聞こえる。
永倉の息が、次第に荒くなっている。
明里に向けているはずの眼も、時に乱れ、泳いでいる。
「ちょっと待ってぇな」
静寂を破ったのは初瀬だった。「ほな何どす? 山南センセが新選組出てかはったのは、明里ちゃんのせい云わはんのどすか?」
「初瀬、やめろ」正二郎が制した。
「いえ、止めまへん」
「ああ、俺達は山南さんを止められなかったよ」
永倉が応える。
「けどな、あの人が最後に伸ばした手を、」
永倉が応えているのは、初瀬ではなかった。
今さらながらに、正二郎は認識した。
「……お前は握ってやれなかったんだぞ」
永倉は、眼を細めた。
「握れるわけ……おまへんやろ?」
「初瀬やめろ」
「明里ちゃんはな、弟を新選組に斬られたんどすえ!」
沈黙。
「……弟……?」
永倉が、生唾を呑み込む音が、聞こえるようだった。「確か……十津川へ行った……」
不意に、彼が前に飛び出した。
明里めがけて。
食い止めた正二郎の体と、
抱き合うようになっても、まだ押してくる。
「明里、応えろ!」
問いかけの言葉に鋭さが増した。
「そうなのか? あの時寺町に居たのが、お前の弟だったのか?」
「永倉君、落ち着け……」
正二郎が押し返す。
「そうなんだな!」
その耳元で、永倉が叫んでいた。
「永倉君!」
なおも、明里に迫ろうとするその体を、正二郎は抑え続けた。
「あいつを斬ったのは俺だ、俺の隊だ!」
動きが、止まった。
しかし、
永倉の叫びはまだ続いた。
「恨むなら俺を恨め!
新選組を恨め!」
勢いはすでに、ない。
「けどなぁ……」
芯の尽きた蝋燭が消え入るように、言葉から力が、急速に失われていった。
「……けどな、山南さんには何の関係もねぇ……ねぇだろ……?」
静寂は、僅かな間だった。
背後で、崩れる音がした。
正二郎は振り返り、叫ぶ。「明里!」
アンジェリーナと《香月や》、倒れた明里を抱き起こした。
「明里ちゃん!」
「奥へ運んで」
「明里、しっかりしぃや! 明里!」
障子が開く音、慌ただしい気配。
それを背に感じつつ、正二郎は、抱いていた永倉を押しのけた。
その体は数歩よろめいて、退がる。
生気が失われている。
ヌケガラ。正二郎にはそう見えた。
その永倉の、左頬が鳴った。
「おい初瀬っ……!」
「何が新選組や! 何が武士やの!」
三和土に降りた初瀬は、右掌を平手にしたまま、永倉を見据えていた。
「そない明里ちゃんが大事なら、なんで山南センセは連れて逃げへんかったの? えぇ?」
永倉は、応えない。
誰の声も、聞こえていないのかも知れない。
無言のまま後ずさり、戸口にぶつかる。
格子戸が、揺れた。
彼は、手を掛け、戸を開いた。
「永倉君」と、正二郎が掛けた声も、届かない。
ただ、去り際に、
「……すみませんでした……」
確かに、そう云った。
戸口から、表の通りへと体が、呑み込まれるように消えていく。
そして、入れ違いに、
「永倉君、ここにいたのか」
「新八っ、どこへ行くんだ!」
声。そして、駆け去る足音。
やがて、
開いたままの戸口から、原田左之助が顔をのぞかせた。
「正二先生」井上源三郎が続く。「いったいどうしたんじゃ、永倉君が……」