からくりサーカスオリジナルストーリー
「島原傀儡舞〜元治二年・払暁〜」
その23
明里は、奥の部屋、正二郎夫婦の私室に寝かされている。
襖が閉ざされた向こうで、アンジェリーナと初瀬が枕頭についている。
居間に残されたのは、五人の男たち。
原田と井上、そして藤堂平助が俯き加減に座っている。
正二郎に並んで、《香月や》が座っている。
茶も出さず、また、求めもせず、彼らは座っていた。
そして彼らは、正二郎が事情を話し終えるまで、一言も発さなかった。
「……そうじゃったか……」
最初に口を開いたのは井上だった。「永倉君が、ねぇ……」
頭を掻く。
「あいつぁ山南さんが好きだったからね」原田が呟いた。
襖が開いた。
初瀬が、音を立てず居間に出た。
「正二センセ」正二郎の隣に座り、口を開いた。「大丈夫やったわ、どこも打ってへんてアンズ姐さんが」
「そうか」正二郎は応えた。「今夜はここで休ませた方がいいかな」
「ええ。姐さんもそう云わはってます」彼女はうなずいた。
「ほんま、気の毒になァ……」うなだれながら、《香月や》が耳朶を掻いた。「ようやっと落ち着いたとこやっちゅうのに」
そして、気がついて云った。「いやいや、けして先生方を責めてるつもりやおまへんで」
その言葉に軽く応え、井上が云った。「あんたにも、迷惑を掛けたな。お嬢ちゃん」
初瀬は応えない。
目を伏せたまま、とはいえ立ち去りもせず、座っていた。
「……初瀬!」
いきなり声を上げたのは原田だった。
向きを変えて座り直し、正面にした初瀬に深く頭を下げた。「勝手は承知で云う。俺が謝る! だから……」
「はっ、原田様!」《香月や》が叫んだ。「……あきまへん、そない、お侍様がわしらみたいなモンに頭を下げはるなんて……あきまへん、わしら……」
「いや、わしからも謝らせてくれ」
井上が、原田に並んで、頭を下げる。
藤堂も続いた。
「いやほんま、困りますわ……まァどうか皆さん、お手を……」
「……勝手な話じゃが」まだ顔を伏せたままで、井上が云う。「永倉君を許しちゃくれんかね」
「永倉……様を……?」
「あの野郎、頭に血がのぼってんだ」原田が続く。
それから、彼らは語り始めた。
山南敬助の処分をめぐり、幹部による会議が先刻まで行われていた。
(局を脱すること許さず)
(背き候者は切腹申しつけるもの也)
隊規による処断を主張する土方歳三に、寛大な処分を求める他の幹部が対立した。
参謀の伊東甲子太郎が助命側に同調し、土方と論議を闘わせた。
「……伊東先生はおっしゃった。(では君は、近藤先生が隊規に背いてもこれを処断すると云われるのか)とな」そう云ったのは藤堂だった。
まだ、頭を下げたままだ。
《香月や》は、ばつの悪そうな顔をしながらも、もう何も云わず彼らを見ていた。
「土方さんは顔色一つ変えずに云い放ったんだ。(ああ)ってよ」
少し間を置いて、藤堂は言葉を継いだ。「……(その後で、俺も腹を切る)。こう云われて、誰も何も云えなくなった」
永倉新八が屯所から姿を消したのは、その直後だった。
胸騒ぎを覚えた彼らが島原へ追ってきて、今、ここにいる。
話を聞き終え、正二郎は何となく襖に眼をやった。
あの夜、永倉は泥酔していたとはいえ、最後まで山南と一緒だったのだ。
「……なんで……」
不意に発された初瀬の言葉に、原田らは顔を上げた。
彼女は、抑揚のない声で続けた。「……なんで、山南さまは、隊を抜け出なあかんよぉならはったんどす……?」
「それが……本人が何も云わんでなぁ」井上が首を振った。
「あの、わし……」《香月や》が口を開く。「出入りの者から聞きましたけどな、今壬生にある屯所、あれをお西さんへ移さはるの移さないやらで、その……土方せんせらと……」
京雀が噂しているのは正二郎も知っていた。
手狭になった今の屯所を引き払い、西本願寺境内へ移転しようとする動きがある。
西本願寺とその檀家は長州贔屓が多く、その心情を慮った山南がこれに強く反対したが、封殺された……という。
「あの人は優しいからな」原田が呟いた。
正二郎は、山南敬助の、印象の薄い顔立ちを思い出していた。
穏やかな表情の下で、どのような感情が渦巻いていたのか……。
「意見が合わなくなったんだよ」
藤堂が軽く咳払いの後に、そう云った。「屯所の件だけじゃない」
彼は、滔々と続けた。
「あの人は憂国の士だ。新選組が幕府の走狗に成り下がっていくのに堪えられなかったんだ」
「ちょっと待てよ、平さん」原田が、藤堂の言葉を遮った。「俺達がイヌだって?」
藤堂はうなずいた。「そう扱われているじゃないか」
「勝手に決めつけるなっ、そんなの伊東の野郎の受け売りじゃねぇか!」
「何っ!」
「よさんかっ、お前ら」井上が二人を制した。「明里が寝とるじゃろ」
舌打ちとともに原田が床を叩いた。
その衝撃が部屋中に広がる。
「……わしには、難しい事は、わからん」井上が頭を掻いた。「ただ……わしら、あの人がそこまで追い詰められとったのに、気づけなんだ……」
彼が口をつぐむと、もう、誰も言葉を続けなかった。
しばらくの沈黙の後、
「あ、あの……」おずおずと、《香月や》が手を伸ばしながら云った。
その掌に、袱紗包みが握られている。
「これ……わし、先ほど永倉様から……」
三人の前に差し出された包みは、大きさと重みから、いくばくかの金が包まれていると推測できた。
「山南さんの金だ」応えたのは原田だった。「有り金を明里に渡すよう、新八に頼んだのよ」
「明里へ……?」
「あの子を身請けしたかったんじゃよ」
原田の言葉にそう続けながら、井上が包みを、ゆっくり、開いた。
切餅、小判、小粒銀、銭……予想どおり、かなりの金子が包まれていた。
「身請け……? 明里を、どすか?」《香月や》が云った。「ですが、その山南様は……」
だが、彼はそれきり口をつぐんだ。
身請けは普通、芸妓の身柄を引き受けるために行われる。
切腹する身の山南が、明里を身請けするとは……。
《香月や》は、そう云いたかったのか。
「あの人はこう云った」応えるように井上が口を開いた。「(これで、明里を自由にしてやってくれ)とな」
「じ……ゆ、う……? 何どすか、それは?」
「山南さんが考えた言葉だ」原田が云った。「要するに、店から出して、好きにさせてやってくれって事だ」
英語で云うfreedomの訳として、仏典の《自由自在》を元にした造語が与えられたのは、明治になってからのことだ。
まったく偶然ながら、幕末の京の片隅に、同じ結論に至った才能があった。
「やっぱり、足らんのか?」
云いながら、井上は懐を探っていた。
古びた財布を取って中を確かめると、彼はその財布ごと、包みに並べて置いた。
「井上様っ、これは……!」《香月や》が目を見開いた。
「屯所に帰ればまだ幾らかはある」井上が云う。「情けないが、新選組の幹部じゃと云うたとて、それほど羽振りがよいわけじゃない……それに、こういう相場もいくらかよく知らんが……」
その言葉を遮って、
包みの上に、もうひとつ、財布が投げ置かれた。
藤堂だった。
彼は無言のまま、もう一度頭を下げた。
井上が小さくうなずいたと思うと、彼も頭を下げた。
「そっ、そない、藤堂様まで……」うろたえた《香月や》が口ごもる。
生唾を、ひとつ呑み込んで。
「いやっ、あの……このお金は……」
と、さらに云いかけたところへ、
鈍い音がした。
大刀と脇差とが、添えるように包みに乗っていた。
鞘一面を朱色に塗り、他の誰の差料よりも目を引く、特徴的な大小であった。
皆の眼が、原田左之助に集まった。
「原田様!」顔を上げた初瀬の、かすれた声を遮って、
「悪かったな。たまたま持ち合わせがねぇんだよ」
原田の細い眼が、微笑でもするかのように、さらに細くなった。「たまたまだぜ」
「しかし左之さん、いくら何でもこれは……」藤堂が続けた。
「それなら大丈夫だ」原田が応えた。「俺は槍使いだからな」
ふと思って、正二郎は山南の包みに眼を戻した。
雑多に混じった金子の中には、たぶん……永倉新八の金もあるはずだ。
そんな、気がした。
「これで足りない分は、後日必ず払う」井上が云った。「……わしらに出来るのはこの程度なんだ。このくらいしか、山南君にしてやれんのじゃよ。だから……」
言葉は続かなかった。
不意に、《香月や》が平伏した。
床まで顔を近づけて、両の手の甲に、その目元を強く押し当てていた。
「あかん……あきまへん……」振り絞るような声だった。「お侍はんの、新選組のお侍様が、お命削って闘うて得たお給金やで。それを……こないな思いの詰まったお金を……よぉ受け取れまへんて……」
「そんな事は構わんっ。《香月や》どの、どうか、受け取ってくだされ」
そう云って井上が手を差しのべたが、《香月や》は顔を上げなかった。
「けど……けどなぁ……やっぱりわし、あきまへんのや……」鼻声が混じって、その言葉は次第に聞き取りにくくなっていった。「わし……うちの子はその、みぃんな……ほんまの娘や思とります。だって、こン妓ら居るおかげで、わし……お飯食べることできてますのんや……」
「おとうはん」
どこかで、鐘が鳴っていた。
「せやから、わし……決めとりますんや……」
そこで言葉を切って、《香月や》はその顔を、床に置いたままの手に、こすりつけるように動かした。
「この子ら年季明けン時とかな、身請話あった時はどすな……こン子がほんま倖せになれるんやったらわし……銭なんぞ鐚一文もらわれへん、そらもォどんな相手かて、貧乏人かて構わん。うっトコの娘よぉけ倖せにしてくだはる御方、そン子がほんま惚れ抜いた御方ン所へ身請……いや身請やないで、嫁入りや。こン娘がほんま倖せになれるよぉ嫁入りできたらわし、金なんぞ要りまへんのや。せやから要するに……要するに……」
「……要するに、何だと云うんじゃね……?」
鐘が鳴り続けていた。
「要するに……明里なァ……」
彼は顔を上げた。
目元が、赤い。
長く、手に押し当てていたせいだろうか。正二郎は思った。
「わし、思いますんや。あン子は今……今、どこへ出したかて……よぉ倖せにはなれしまへん」
「いや、そんな事は……」
「要するにあン子は……今のままじゃ倖せになれんのどす……」
「そんな事はないっ」
「今あの子を倖せにできンのは、山南様だけどす」
何か応えかけて、井上は言葉に詰まった。
小さく、呻くような声を上げて、彼は延び放題の月代に手を置いた。
「すんまへんっ、ほんま、すんまへん……」《香月や》はあらためて頭を下げた。「とにかく要するに、そのお金はお持ち帰りにならはってください」
鐘の声は、いつの間にか鳴り止んでいた。
正二郎が伊東甲子太郎の招きを受けたのは、その夜のことだった。