からくりサーカスオリジナルストーリー
「島原傀儡舞〜元治二年・払暁〜」
その26
「いい考えだと思うのですが」
正二郎は口を開いた。
畳に落としていた視線を、ゆっくりと、上げる。
伊東と眼が合った。
続けて云う。「私にはそれはできません」
「なぜです!」
声を上げたのは藤堂だった。
傷痕の残った眉根を歪ませ、彼を見据えていた。
伊東は、口を開かない。
静かに腕を組み、眼を閉じた。
「それが……巧く云えんのだが」
正二郎は口をつぐんだ。
あの《角屋》の夜の、近藤の豪放な笑い声が思い浮かんだ。
篝火の中で踊る《あるるかん》が。
加納という隊士がアンジェリーナを面罵したことを。
その傍で静かに着座していた伊東甲子太郎を。
「……要するに」再び眼を開いたとき、その眼は伊東に向けられた。
「私には、あなたが何か企んでおられるようにしか思えんのです」
「正二先生!」
「藤堂君」
身を乗り出しかけた藤堂を、伊東の声が制した。
「ですが先生」
「成瀬先生の云うのも無理はない」顔色一つ変えず、伊東はこう続けた。「……僕の評判はあまりよろしくないからな」
間。
「正二先生っ、それは違います!」藤堂は正二郎ににじり寄った。「伊東先生は、先生は皆が云うような方じゃないっ、山南さんの、そしてこの国の行く末を案じて……」
藤堂平助、この年二十二才。
新選組幹部では、沖田の次に若い。
「どうして……」言葉の途中でその彼が、眼を床に落とす。
「……どうして、誰もわかってくれないんだ……」
正二郎は黙って頭を下げた。
「ですから正二先生……」
「……すまない事とは承知してるが」藤堂を遮って、彼は云った。「それでも私は、この伊東さんを信じることはできないのです」
「先生!」
「はははは」
不意の、明るい笑い声だった。
思わず正二郎は顔を伊東に向けた。
彼の片頬に、小さな笑窪が浮かんでいた。
「なるほど、噂通りの正直な御方ですな」笑い終えると彼はそう云った。
よく云われる。
そう返そうか迷っているところに、伊東は言葉を重ねた。
「何かを企てているかと云えば、そのとおりです」
「それは、どういうことですか」
「山南君が助かったら、僕は彼と新選組を改革するつもりです」
静かな話しぶりはそのままだ。
「今のままでは新選組は公儀の飼い犬です」
藤堂が、納得したように小さく肯いた。
伊東は続けた。「それならそれでいいかも知れませんが……残念ながら、今の幕府には、この国を支える力はもう、ありません」
その瞳に光が宿った。
静かな眼、そして、穏やかな表情に変わりはない。
だが、語る言葉にわずかに熱がこもったと、正二郎には感じられた。
「新選組を、真に日ノ本の為の集団とするには、幕府や会津の軛から逃れ、広く天下の諸士と交わってゆかねばならないのです。そして、それができるのが……僕の見る限り、山南君なのです」
「ですがそれでは、近藤さん達が納得されますまい」反問したのは藤堂だった。
彼も、初めて聞くのだろう。
「そのためにも、山南君を助けなければならないのです」
伊東は応え、続けた。
「隊規に背き、いったんは処断と決まった彼が救われれば、土方副長も」
そこで一瞬、わずかに、口をつぐんだ。
確かに、土方と名を出した。
……強い意識が、呼ばせたのか。
だが、
「自分たちのやり方がもう通用しないことを認めてくれるでしょう」と、よどみなく語を継いだ。
「……それで」
正二郎が呟くように応えた。「私に、会津公への働きかけをさせるのですか」
「それが、僕の考える唯一の手段です」
「先生!」藤堂がもう一度、云った。「お願いします、山南さんを……!」
「うーん……」正二郎は腕を組んだ。
……もし、この場に、アンジェリーナがいたら……。
篝火が、爆ぜた。
あの夜の《角屋》の庭の篝火が、正二郎の心の中で、爆ぜた。
闇の中、《あるるかん》が踊る。
糸を操るアンジェリーナがいる。
(その方、異人の娘だな)
加納という名の隊士が……、
……踊る……
「藤堂君、先生は迷っておられるのだ」
伊東の声で我に返った。
あたかも醒めて忘れる夢のように、漠然と、頭の中に思い浮かんでいたものがかき消され、正二郎は、宙にやっていた視線を戻した。
伊東の瞳と、まっすぐに、ぶつかった。
「成瀬先生は明晰な御方だ」眼を逸らさず、彼は言葉を続けた。「そしてその心には、僕達と同じく山南君を助けようという思いがある」
藤堂は伊東を、そして、正二郎を見た。
何かを云おうとして唇を動かし、止めた。
「成瀬先生。応えを今すぐ、とは云いません」伊東は続けた。「明朝、金戒光明寺をお訪ねくだされば、間に合うでしょう」
応えなかった。
応えを待つ様子も見せず、伊東は続けた。
「あなたが正しいと思う行動をおとりください」
「……ああ」
そう云って、正二郎は立ち上がった。
「正二先生、どちらへ」
「話は終わったろう」彼は応えた。「これで失礼するよ」
「お待ち下さい」
引き留めたのは伊東だった。
静かな声で正二郎を見上げ、そのまま、云った。「ここの料理は絶品です。どうか、ご一緒いただけませんか」
「あっ……」
正二郎はしばらく逡巡した。
夕食はいらない、そう妻に云って家を出た。
「なるほど用件は終わりです」伊東が続けた。「ですが、いちど僕もあなたと話がしたいと思っていました」
「……まあ、そうですな」
正二郎は軽く会釈して、座り直した。
伊東が微笑を浮かべる。
「先生」横から、藤堂が盃を差し出した。