からくりサーカスオリジナルストーリー
「島原傀儡舞〜元治二年・払暁〜」
その28
「……口が過ぎました」
店を出た。
結局、盛り上がりを欠いたままに時が経ち、正二郎は席を辞した。
伊東甲子太郎が見送りを申し出たのを謝絶すると、せめて、として藤堂平助が店先まで付き添うこととなった。
その藤堂が、玄関から踏み出したとき、呟くように云った。
「いや、構わんよ」正二郎は短く応えた。
二人して、狭い中庭の、石畳を歩く。
少し考えて、口を開いた。「藤堂君、私は……」
「いいんですよ、先生」
藤堂を見る。
顔を俯かせながらも、明るさのこもった声で続けた。「伊東先生の仰るとおり、人にはそれぞれの生き方があるんですよね」
正二郎は応えなかった。
山南のことを口にしようかとも思ったが、やめた。
云って、どうもなりはしない。
だから多分、藤堂も口に出さないでいる。
何も云わないままに、暖簾の掛かった小さなくぐりを抜けて、通りに踏み入った。
藤堂が、立ち止まった。
「本当にお送りしなくていいですか」
「ああ。私を狙う奴もいないだろう」正二郎が応えた。「伊東先生と一緒にいてあげてくれ」
「正二先生っ、伊東先生は……」
「わかってる」云いかけて、云い直した。「……わかってる、つもりだ」
不意に、正二郎は手を上げた。
「……傷を、診せてくれないか」
藤堂平助に差しのべながら、云った。
「ここで、ですか?」
「ああ」
応えたときには、藤堂の額に掌を掛けていた。
門脇の灯籠の火にかざしながら、顔の傷痕に指先を触れた。
……池田屋で負い、彼が治した傷口。
あれから、まだ一年も経ってなかった。
指先のわずかな感覚を確かめながら、ゆっくり、傷口をなぞってゆく。
「……痛むことは、あるか?」
「いいえ、もう」
「傷口が、熱を持つことは?」訊ねたながら、軽く押した。
「酒を飲んだとき、幽かに」
藤堂の、眉根の下の眼が、ほんのわずかに、揺れていた。
「そうか」とだけ云って、正二郎は手を離した。
傷口は完全に癒着し、塞がっていた。
「もう大丈夫だ」
「そうですか」
「何かあったら、いつでも診せに来てくれ」
「何もなくとも行きますよ、先生」藤堂が笑った。「奥さんによろしく」
「ああ」正二郎も、笑った。
「それじゃ」
「ええ」
そのまま、背を向けた。
振り返らず、数歩歩いたところへ、
「先生」声が、彼を追った。「先生にもらった命です。思い残しなく、存分に戦いますよ」
振り返った。
藤堂が、そこにいた。
「馬鹿云っちゃ困る」正二郎は応えた。「せっかく助けた命だ、軽々しく捨てちゃいかん」
「……そうですね。そうでしたね」
云って、藤堂は声を上げて、笑った。
表通りに出ようとしたとき、角に立つ蕎麦売りに気がついた。
屋台には《二八蕎麦》と書いてある。
珍しい、と思った。
関西圏では蕎麦より饂飩が好まれるとはいえ、京に蕎麦屋がないわけでもない。
だが、人足途絶えた夜の街に、屋台を出してまで蕎麦を売るのが目についた。
足を向け、身を屈めて、屋台の向こう側を覗き込む。
「おばんどす」正二郎に気がついて、蕎麦屋が云った。
大柄な、老け顔の男だった。
正二郎はかすかに微笑した。
そして、云った。「君、さっきも逢ったね」
蕎麦売りの表情に動揺が走る。
常人を超越する《しろがね》の記憶力である。
「私達が料亭に入るときだよ」正二郎は続けた。「すれ違ったときは、飴売りだったかな」
「だ……旦はん、そりゃ何かのお間違いで……」
「もう、飴売りのうろつく時刻じゃないからな。商売替えか」
「せ、せやから、そりゃ旦はんの勘違いどすぜ」
「京の出でもないようだな」
蕎麦売りの目許を、汗が一筋流れ落ちていった。
「君、どこかの密偵だね」
長州か、幕府か……他の藩か。
黙っていてもよかった。
だが、
今宵《束信》を見張っているということは、伊東と藤堂が目当てに違いない。
彼らには、誰の手も触れさせたくなかった。
「ここには何もない、帰るんだ」彼は云った。
その、とき。
「ほら云ったでしょ。あんたの図体じゃ見張りは向いてねぇんですよ」
不意の呼びかけに、正二郎は顔を向けた。
「ひでえや、そりゃ違うでしょ」その背後で、声に応えて蕎麦売りが云い返していた。「だからあっしは屑拾いの方がいいって……」
「うるせぇ、つべこべ云いなさんな!」
角の陰。
その、闇の中から男の姿が浮かび上がった。
行商人のいでたちをしていたが、月代を伸ばし、無造作に結った髷は渡世人風であり、どこか崩れた印象がある。
端正といえる顔だが、切れ長の眼があやしい光を放っていた。
知った顔だった。正二郎は、声を掛けた。
「山崎君じゃないか」
……では、新選組か。
「違いやすぜ、先生」男が手を振った。茶目っ気の混じった仕草で応えた。「あたしは行商人の英。島原じゃそう呼んでくだせぇって云ったでしょ?」
「ここは島原じゃない」
「似たようなもんでしょ……隣、いいですかい?」
監察方調役、山崎丞。
そう呼ばれている男は、正二郎に向かって歩み寄ってきた。