からくりサーカスオリジナルストーリー
「島原傀儡舞〜元治二年・払暁〜」
その29
「そりゃあ、上方あたりじゃ饂飩ばっかですがね、蕎麦だって、けして珍しかないんですよ」
呟きながら山崎は箸を取って、指先で玩んでいた。「正二先生、ほんとに食わねぇんですかい?」
「ああ。たったいま食べたからな」
「蕎麦は別腹ですって」正二郎の応えに山崎は云った。
並んで腰掛ける二人の前で、蕎麦屋……に扮した監察方が、黙々と蕎麦を茹でている。
手つきはいい。
出汁の匂いが鼻をくすぐる。
断ったのは早まったかもしれない。正二郎は思った。
「越前、但馬、ちっと遠いが出雲。
山国で米の採れねぇとこで作ってる蕎麦はね、東国にだってけしてひけをとりゃしやせんぜ。
こいつの粉は但馬出石から取り寄せてやすがね……
そうだ旦那、出雲の大社さんに行ったことは?」
一人でしゃべっていた。
山崎丞は正二郎を誘い、部下がやっていた屋台蕎麦を食べようとしている。
「ああ、昔ね」正二郎はうなずいた。
「荒木屋ってご存じですかい? あすこの蕎麦は最高なんすよ」
「いや」正二郎は首を振った。
監察は、新選組の情報収集活動を担当する。
山崎と知り合ったとき、彼は行商人に身をやつし島原に潜入していた。
新選組隊士と見抜かれた後も、悪びれず出入りする。
本物の商人よろしく、頼めばどこからか品物を仕入れてくるので、からくり細工の原料調達に重宝している。
「そうすか、そりゃ残念です」
唇の片方を吊り上げ、顔半分で笑ってみせた。
商人にしてもだらしない所作だが、この男がやると妙に似合う。
「いつか行ってくだせぇ。あ、もちろん奥さんも連れてね……何しろあすこは縁結び、夫婦円満の神様ですからねぇ」
「へい、お待ち」蕎麦が出た。
「おっ、待ってやしたぜ」山崎が箸を構えた。「んじゃ、失礼してあたしだけ」
丼に、鰊が乗っていた。
当世流行りだした蕎麦である。
山崎が食べ始めたのを見て、正二郎は昔の記憶を思い出していた。
出雲にも、行った。
長崎から京まで、二人きりで流れてきた。
島原に腰を据えて、長い時が経った。
(あなたはこのまま町医者として埋もれる気ですか)
藤堂平助の、傷痕の残る顔が浮かんだ。
そうだよ。
私は、惚れた女とここに埋もれる。
永久に、いや、永久が終わっても。
アンジェリーナの姿が浮かんだ。
続いて、明里が。
いつしか、彼は山南敬助のことを考えていた。
「旦那」山崎の呼ぶ声に我に返った。
「どうしたんすか? 奥さんのことでも考えてたんですかい」
「いや……」
「すいやせん、一人で食べちまってて」云うと、山崎は蕎麦屋に向かった。「ほら、何してんですかい。旦那に燗でもして出しなせぇよ」
「いや、私は酒は……」謝絶してから、正二郎は云い直した。「かわりに、蕎麦を頼もうか。見てたら食べたくなってきたよ」
「そうでしょ。それでこそ《才が》の旦那ってもんです」山崎がうなずいた。
どう私なんだ、と訊ねたかったが、やめた。
蕎麦屋が黙って蕎麦玉を茹で始めた。
山崎は箸を取った。
一口啜ると、
「旦那がね、伊東先生の申し出を断ったのは良かったですぜ」と、云った。
正二郎は山崎を見た。
山崎は蕎麦屋に顔を向けたまま、切れ長の眼を横目にして彼を窺っている。