からくりサーカスオリジナルストーリー
「島原傀儡舞〜元治二年・払暁〜

 

 その30 

 

 どこで、聞いたのだ。

「山崎君、君は……」と口を開きかけたが、

「ご存じでしょうかね。池田屋の一件のあと、近藤先生がテングになっちまいやしてね」

「てんぐ?」

「ほら、ああいう御方でしょ?」山崎は、正二郎に構わず言葉を続けた。
「京の尊攘浪士を一網打尽にした新選組局長。
一気に名が売れて御公儀の覚えもめでたくなって……おまけに
界隈の妓にキャーキャー云われるようになったもんですから、
すっかり調子づいちまいやして、まるでお大名気取りだ。
あたしらなんぞ家来でも扱うみてぇになっちまったんでさ……」

 一度山崎は話を止め、正二郎の顔を窺った。

 眼は笑っていた。

 そして、続けた。「で、そん時、永倉さんや原田さんなんざが会津公に訴え出たんすよ」

 その話なら知っている。

 新選組は同志の集団だ、近藤さんと我々は主従ではない。と、会津藩に書状を提出した。

 嘆願を受け、会津藩は近藤を呼び出した。

 彼は己の不明と増長を恥じ、直ちに皆に詫び、行跡を改めたという。

 原田たちから聞いた話だった。

「でもね、あたしゃ思うんすよ」山崎は云った。「……近藤先生が、気の毒だってね」

気の毒?

「なんだって、
誰も面と向かって
云ってくれなかったんでしょ。

わざわざ会津のお偉いさんに訴えねぇでも、
腹を割って話してくれりゃよかったのに、ってね」

「……」

 近藤勇の、豪快な笑いを思い出した。

「今度の一件だってそうです。山南さんが何を思い悩んでたかは、そりゃ判りやせん……けど、思い詰めて脱走する前に、なんで自分と話をしてくれなかった。そう思ってるに違いありやせんぜ」

「待ってくれ、それとこれとは……」

「だからむしろ」それを遮り、山崎は話を続けていた。「黒谷から、山南先生を助けろなんて指図されでもされようなら、むしろ意固地になって即」

 そして、片手を振りおろす仕草を見せた。「山南さんを処断する……と、思いやす」

「へい、お待ち」蕎麦が出た。

「どうぞ旦那、お熱いうちに」山崎は正二郎に勧め、それから自分の蕎麦をまた口に運ぶ。

 丼を見た。

 不格好なまでに身の大きな鰊が、乗っている。

 京風に仕立てられた透明な出汁の中に、やや色の濃い麺が浮かんでいる。

 何か手間を掛けているのだろうか、魚の肌が飴色に照り返っていた。

「そんなことしちまったら、
 下手すりゃ会津さんと近藤先生たちの仲違いになるかも知れねぇ……
 そこまでいかねぇとしたって、新選組はガタガタになっちまう」

「そうなのか」

「ほら旦那、延びねぇうちに」

「ああ」正二郎は箸を取り、一口食べる。

 腰が強い。打ち方と茹で方がいいのだろう。

 出汁の風味が口に広がる。控え目ながら、深みがある。

 嚥下し、もう一口啜る。

 次いで、鰊の身をほぐしに掛かる。

「どうですかい」蕎麦屋が訊いてきた。

「美味いよ」と返す。

 これなら、いくらでも入る。

「美味ぇってよ、よかったなぁ」山崎が笑いかけた。

 蕎麦屋が顔を上げた。

 山崎に褒められたのが何故かうれしいらしく、立ちのぼる湯気を介した向こう側から、

「へへへ……」と、声を上げ、笑った。

「あんた、人斬りよか蕎麦切りのが性に合ってんだよ」山崎が続ける。「どうです? 新選組なんざとっとと脱走して、江戸あたりで店でも出したら」

 正二郎の箸が、止まった。

「……おっと、こいつぁ」

 気がついて、山崎は器を置くと正二郎に向き直った。「変な冗談云っちまいやした」

「いや、いいんだよ」

「山南先生はね、優しい方なんですよ」

 屋台に背を向け、山崎は空を見た。

 雲が懸かり、星も月もない。

 だが、正二郎も見上げた。

 湿り気を含んだ風が、心地よい。

 その、穏やかな気持ちが、山南と対したときの記憶と重なった。

「……古高の野郎を拷問に掛けたときだって、やり方が厳しすぎるって反対したんですぜ。立場は違えど尊皇攘夷の志を持つ武士だ、侍を遇する扱いがあるだろう。って」

 近江浪人、古高俊太郎のことだ。

 尊攘浪士の一人として京に潜伏したが、山崎らに捕縛された。

 土方歳三が主導したという苛烈な拷問の末、御所を襲い帝を奪う陰謀を白状し、その同志が集結した池田屋を、新選組が襲撃するきっかけとなったという。

 どんな拷問だったのか。誰も語ろうとしなかったが、

(土方さん……何も、ああまでしねぇでも……)

 原田左之助が語ったときの、いつにない蒼白な表情を思い出した。

 不意に、山崎の首が左右に幽かに振れた。

「……甘ぇんですよ……」

 息と共に洩れた、そんな呟きだった。

「ああいう御仁が、こんな時代に生まれてきちまったのが、そもそも間違いなんでしょうね」

「時代、か……」

 相槌のように反芻した。

「おっと、延びちまう」

 云って、山崎は器に向かった。

 正二郎は、しばらくそのまま空を見ていた。

 雲の上には、月も、星もある。

「旦那」蕎麦屋が、正二郎に声を掛けた。「どうぞ、延びねぇうちに」

「おっと、すまん」我に返って、蕎麦に戻る。

 鰊の半身をたいらげたところで、

「……けど、あたしは思うんですが」

 麺を啜り終えたのか、山崎がまたしゃべり始めた。

「伊東先生はね、旦那が断ったことだって、きっと見越してんだってね」

「……どういうことだ?」

 正二郎は箸を置いた。

 彼の反問に、山崎はすぐには反応しなかった。

 彼は丼に唇をつけ、音を立てて出汁を飲み干した。

「ごちそうさま」

 丼を置き、掌を合わせてから、続けた。「だって旦那……もう見過ごせねぇでしょ? 何とかして山南先生を救いてぇ、そう思ってるでしょ?」

 正二郎は応えなかった。

「……伊東先生に持ちかけられた《妙策》も断った」一方的に山崎は続けた。「そうなりゃもう、自分で何かをしなけりゃならねぇ。誰に云われるのでもねぇ、
才がの正二旦那がご自身で、ね」

「ちょっと待て」正二郎は反論した。「それではまるで私が……」

そう、伊東先生の操り人形なんすよ。旦那は」

「違う! それは……」

「だって旦那、今すぐにだって屯所に押し掛けようって思ってるでしょ」

 正二郎は絶句した。

「……けど、今夜はやめときなせぇ」山崎が制した。「あたしの支度が済んじゃいねぇ」

「支度?」

 山崎は、応えなかった。

 正二郎も重ねて問わなかった。

 蕎麦屋が黙って、山崎の器を下げる。

「……あの先生はね、策士なんですよ」静寂を破ったのは山崎だった。「将棋で云や、王手飛車取り。しかもどっちを逃がしたって次の一手で詰み。そういう打ち方をすんですよ」

 食べ足りないのか、下げられる丼を名残惜しげに見送っていた。

「《才が》の旦那にゃ、例の人形がある」

 ……アンジェリーナの前で、山崎は、《あるるかん》を操ってみせたことがあるという。

 大坂の、鍼医の息子という触れ込みは嘘である。

 山崎丞という名さえ、偽名という。

 大和の山奥の小さな村の出自、と明かしたことがあった。

 その名を……《黒賀村》。

「旦那が屯所に行く。旦那にゃその腕とご気性がある、そのうえ……例の人形だ。きっと騒ぎになる……それに乗じて何かを狙ってる。きっと、そんなところなんでしょうね」

「何かを? 伊東さんが何を……」

 云いかけて、藤堂平助の顔が浮かんだ。

サキガケ先生は噛んぢゃいやせんぜ」魁先生、と藤堂を仇名で呼んで、山崎は続けた。

「あの人は微妙な立場にいらっしゃんですよ。そりゃ、近藤局長と出会う前から伊東先生らとつきあってやすよ。新選組に誘ったんだって、あのお人だ」

「ああ」

「けど、あの人は近藤さんが好きなんです、大好きなんです……実はあたしだってです。
強くて、
馬鹿で、
助平で、
子供みてぇなトコが大好きなんすよ。先生だってそうでしょう?」

「あ、ああ……」

「……で、サキガケの旦那は二人の間で板挟みだ。そうとう悩んでおられるこってしょう。もちろん伊東参謀だって、ンなこたお見通しだ」

「だから、重要なことは何も教えちゃねぇでしょう」

「では……私は……」

「操られるのはお嫌ぇで?」

(土は土へ)

(人形は人形へ還せ)

(土は土へ)

(人形は人形へ)

 彼の体内の《生命の水》が、やまず囁き続けている。

 その声を無視し、自動人形との闘いという呪縛から逃れて、今日まで生きてきた。

 彼も、アンジェリーナも。

「おや……旦那、どうなせぇやした?」山崎が、囁きかけるように顔を寄せてきた。「体が、震えてやすぜ」

 拳を握った。

「旦那」

 震えを鎮めようとしてか、山崎が、その上に掌を重ねた。

「ま、山南先生を見殺しにするなら話は別ですがね……できねぇでしょ?」彼は静かに云った。「……蕎麦、召し上がってくだせぇよ」

 食べる気分ではなかった。

「そいつぁ勿体ねぇ」と、山崎が横から手を伸ばした。「んじゃ、あたしが……」

 重ねた掌を、山崎は離していた。

 震えも、止まっていた。

 それからしばらく、蕎麦を啜る音だけが、あたりに響いていた。

 不意に。

 正二郎の前に、燗酒が置かれた。

 眼を上げた。

「旦那」と、蕎麦屋が、猪口を持った掌を差しのべていた。「どうぞ」

「……いや、私は、飲めないんだ……」

「正二の旦那は嘘が下手ですねぇ」

 隣を向く。

 蕎麦を食べていたはずの山崎が、細い眼に笑みを湛えて彼を見ていた。

「呑んでしまいてぇんでしょ? ホントは」

 気持ちを見透かす男だった。

「さ、遠慮しねぇで」

 云いながら山崎は銚子を持ち、注いだ。

 黙って、正二郎は、飲み干した。

 

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