からくりサーカスオリジナルストーリー
「島原傀儡舞〜元治二年・払暁〜」
その31
「おっと」
よろめいた正二郎は思わず声をあげ、門柱に手を掛けた。
体内の酒精が平衡感覚を狂わせている。そう、彼は自覚していた。
彼の試算では《しろがね》の身体能力は、常人の五倍を上回る。
それが、酒への耐性となると……五倍、とまではならないが、上戸はより上戸、下戸はより下戸へと変貌を遂げるようであった。
足取りは、まだおぼつかぬ。
それでも、島原の大門をくぐったときには、酔いはかなり醒めていた。
山崎に勧められるまま、つい度を超えた。
断れなかった。
いや、断る気になれなかった。
深更の花街は人通りもまばらで、宴の客は既に去り、流連を決め込む客は店に収まっている時刻。
見慣れた街並みを、中之町へ戻る。
《才が》の灯籠は、とうに消えていた。
だが、戸締まりはしていない。
躊躇うことなく、扉を開けた。
闇を見通す《しろがね》の視力である。
間口を抜けて三和土に上がるとき、また、よろけた。
そのまま、音を立てて玄関に倒れた。
手をつくと、小揚がりの冷たさを感じた。
「無様だ」
口に出した正二郎は、しばらく動かなかった。
「無様ではないか、成瀬正二郎」
もう一度、呟く。
闇。
二階に、気配を感じた。
見上げると、階上から光がさしていた。
アンジェリーナと、明里。
身を起こし、昇る。
病室の戸を開けたとき。
「あなた」
枕元に座っていたアンジェリーナが、静かな声で制する。
気づいて彼は、足音をしのばせる。
明里は、眠っていた。
その手を、アンジェリーナが握っている。
丸山の頃から、彼女はこうして遊女を慰めてきた。
正二郎は、大きく息をついた。
腰を下ろして声を掛けた。「どうだ」
「もう大丈夫よ」アンジェリーナが応えた。「誰かさんが転んでも目覚めませんでしたわ」
「すまん」
正二郎は一段と声を落とす。
「伊東先生は、何を?」
アンジェリーナの問には応えず、彼は、明里の寝顔に目を落とした。
「……童のごたる寝顔たい」
つい、九州言葉が口を出た。
「そうね」アンジェリーナがうなずいた。
彼女は、重ねて訊ねない。
彼は、もう一度息を大きく吐いた。
体の中の酒精分が、こうしていくうちに抜けていくのだろう。
深呼吸を再びしてから、彼は口を開いた。
「伊東さんは、この一件を利用しようと考えてる」
そして、語った。
(土は土へ)
伊東のこと、
(人形は人形へ)
藤堂のこと、
(土は土へ)
そして、山崎のこと。
(人形は……)
囁きに堪えかね、正二郎は頭を抱えた。
アンジェリーナは何も云わない。
相槌さえ打たず、ただ、彼に耳を傾ける。
「……おかしいだろう、なあ?」
両耳を塞いだまま、正二郎は続けた。「こぎゃん《生命の水》の声まで振り切って、己が道ば切り開いてきたつもりが、気がつけば……」
行灯に目をやった。「誰かの手ぇで操り人形にされようとしとるたいね」
しばらく、灯火を見つめていた。
「何にも触れんよに、何にも巻き込まれんよに生きとったとに……」
そう、云いかけて、彼は云い直した。
「……いや、何もできんかったのに……」
そうだ。
あの、島原の宴の夜も。
壬生寺の夕暮れも。
永倉の哀しみにも。
明里にも。
藤堂平助の問いかけにも、応えることはできなかった。
市井に、生きるつもりだったのか。
いや、市井にさえ、生きてない。
人と、関わることすら、避けてきた。
歳をとらないことを不審がられる前に、と理由づけていた。
しかし本当は、《しろがね》たる自分を口実に、
世の中とさえ関わろうとしなかったのかもしれない。
「……長く居すぎたかもしれん、な」
正二郎は掌を上げると、自分の顔に触れた。
そうすることで、己に血が流れていることを確かめたくなった。
その掌に、白い掌が重なった。
「おっおい、ア……」
「お静かに」
正二郎に構わず、アンジェリーナは両手を伸ばして彼の掌を掴み、彼女の頬に引き寄せた。
掌に頬をすり寄せて、彼女は瞳をとじた。
「ほら……あなたは、こんなにも、温かい……」
お前の頬も、温かい。正二郎はそう云いたかった。
「……あなたは、あなた。人形なんかじゃ、ない……」
「おまえ……」
「何も、おっしゃらないで」
掌を、腕を、そして体が、引き寄せられた。
彼の上体を抱きしめ、彼女は、その唇を正二郎の唇に合わせた。
夜が、流れていく。
僅かな時にしか、過ぎなかったろうが。
やがて、
唇を離して、アンジェリーナは云った。
「あなたが、今、何をしたいか、それだけを考えて」
(あなたは、あなた)
(おまえは、おまえ)
《生命の水》の呪縛がもたらす声は、そのとき、聞こえなかった。
「あなたは何をなさりたいの」
もう一度、彼女は云った。