からくりサーカスオリジナルストーリー
「島原傀儡舞〜元治二年・払暁〜」
その32
「うち……」
思わぬ声だった。
アンジェリーナは正二郎から身を離すと、背にしていた寝床に向き直り、云った。「ごめんなさい、起こしたのね」
正二郎が見ると、明里は臥したまま眼を開いていた。
行灯から射し込む光を受けた端正な顔に表情はなく、その瞳は、天井を見つめている。そのままで、彼女は幽かに唇を動かしていた。
「うちなァ……うちがしたいのはなぁ……」
(あなたは何をなさりたいの)
アンジェリーナの問いかけに、応えようとしていた。
「いいんだ明里、今のは……」
「続けて」
正二郎を遮って、アンジェリーナが声をかけた。
「あわてないで。ゆっくり考えていいのよ」と云うと、彼女の手にその掌を重ねた。
灯りが、揺れた。
二人は、明里が口を開くのを待った。
「……利蔵は、まだ十五どした……」
利蔵。明里の弟のことか。
十津川の郷士として、寺町で、新選組に斬られた。
「小さい頃から、お侍の真似事が好きなコどしてな」
明里は、語り続けた。「十津川の御家へ行く話ぃ来たときも、喜んでなあ……お侍になれる、お国のために働ける云うてたんどすえ……」
不意に、声が途切れた。
「それで?」正二郎が、促す。
「いいのよ」アンジェリーナは首を振った。「ゆっくりで」
「すんまへん」明里が謝る。
「いいのよ」
「……あン御方も、同じに云わはってました」
明里はそこで、また口を閉ざした。
長い沈黙が続いた。
「江戸から上って、新選組作らはって、ようやっと国のために働くことができる、
そない云うて、喜んではった……」
山南敬助の、印象の薄い顔立ちを、正二郎は思い出していた。
「けど、他のお侍さまらと違うて、自慢話とか……斬り合いの話なんて全然せぇへん御方どした」
「そうか」彼はうなずいた。
それ以上は云わなかった……また、アンジェリーナにたしなめられる。
「二人きりになるとな、お酒も召さんで……源氏物語読み聞かせてくれ云わはってなあ」
「源氏物語?」
意外な言葉に、正二郎は思わず口にして問うたが、応えを待たずに納得した。
島原の芸妓も、江戸の花魁も実はそうだが、高級遊女となると歌舞音曲のほか詩歌、漢文をはじめとする文学的教養が求められる。
学識豊かな山南は、明里の知的な素養に魅かれたのかもしれない、と想像した。
明里は、続けた。「こないな時代があったんやなて……勤王も攘夷もなく、男と女がひたむきに想いを傾けあう時代があったんだな、そないに仰らはってました。それに……」
「それに?」
明里はほのかに笑う。「時々、そないヤらしい事読みあげるなて、真っ赤なお顔にならはって……可愛らしかったわあ」
「まあ」
声に気付いて顔を見ると、アンジェリーナも、つられたように微笑していた。
「ほんまにそう書いてるのか云わはって、うちの本取り上げよぉして……」
正二郎は、アンジェリーナを見た。
優しい瞳だった。それが、彼の視線に気がついて、見つめ返す。
彼は、かすかにうなずいた。
「けど……けどなァ」
不意に、明里の声がか細くなった。
「永倉せんせの仰るとおりや、うちは……」
(……すいませんでした……)
永倉新八の、去り際の一言を、瞳に光のない表情を、正二郎は思い出した。
「違う明里、それは……」
云いかけた正二郎を、アンジェリーナは手で制した。
「……うちは、あン御方の伸ばした手ぇ、握れしまへんかったんや」
明里は続けた。「うち、あん御方の優しさに甘えてたんや」
そこで、口を閉じた。
沈黙が、続いた。
正二郎が口を開くのを、もう一度、アンジェリーナが抑えかけたとき、
「あの子殺したんは……新選組どす」
そう、明里が呟いた。
また、間を置く。
唇が動きかけては、止まる。
目が、細くなる。
「……姐はん……」声が、震えていた。
アンジェリーナが囁くように云った。「いいのよ、ゆっくりで」
「すんまへん、姐はん……」
正二郎は、明里の掌に重ねるアンジェリーナの掌に眼をやった。
「うちの気持ちみんな、あン御方なら受け止めてくれはる、そう思てたんや。けど……」
明里はそこで言葉を切ったが、すぐに続けた。「けど、うちこそ、あン御方の気持ちを受け止められへんかった……」
正二郎は眼を伏せた。
時間が解決できる。そう思っていた。
しかし……山南は、それを待ちきれなかった。
「……うち、もぉ、あン御方に何もでけへん……」
その、明里の声が、消え入るように細くなったのを感じて、正二郎は顔を上げた。
「もういい、明里」そして、云った。「それ以上、自分を責めるんじゃない」
「続けて」
「おい、アンジェリ……」
正二郎の制止を無視して、アンジェリーナは続けた。
明里の掌を握ったまま、明里の顔を見つめ、明里の耳元に頬を寄せ、云った。
「だけどね」
幼子を諭す母親のように、彼女は明里の瞳に語りかけた。「自分だけを、自分の心だけを見つめるのよ」
「姐はん……」
「そして考えるの。あなたはどう思っているのか、他の誰でもなく、あなたが何をしたいのかを、それだけを考えるのよ」
正二郎は息を呑んだ。
灯りに照らされたアンジェリーナの横顔だけを、ただ、見つめていた。
「アンズ姐はん」
「ゆっくりでいいから」
沈黙。
長い沈黙だった。
「けど、うちなァ……それでも……」
明里の、かすれた声が聞こえ、途切れた。
アンジェリーナは無言のまま、彼女を見つめていた。
やがて、
「……山南せんせ」
その唇から溢れるようにして出たその名前を、彼女は、もう一度、繰り返して、
「山南せんせ」
と、云った。
不意に、明里は、握っていたアンジェリーナの掌を放した。
もう片方の掌とあわせて顔にやり、覆った。
両掌の隙間からのぞいている、美しい口元が哀しげに歪んだかと思うと、その名を繰り返した。
何度も、何度も。
「山南せんせ」
「山南せんせ」
「山南せんせ」
「山南せんせ」
「山南せんせ」
「山南せんせ」
「山南せんせ」
「山南せんせ」
「山南せんせ」
「山南せんせ」
……何度も、何度も。
アンジェリーナは、何も云わなかった。
明里の頬から涙がとめどなく流れ落ちようと、山南を呼ぶ声に低い嗚咽が混じろうとも。
それは、正二郎も同じだった。
山南を呼ぶ声が涙声に消え入り、その啜り泣きが静まるまでの長い間、身動きせずに、二人の姿を見つめていた。
いや。
彼の心は、二人を見てはいなかった。
沈黙。
「それでも……」
沈黙。
その、ひとかたまりの空気のような存在から浸み出すように、
「それでも……うち……」
明里の言葉は、途切れ途切れ、たどたどしく、
「あン御人が、新選組でも、そうや無ぉても構へん。……うちは……」彼女の唇から、振り絞られた。「あン御方の隣に、居たいんやわあ……」
アンジェリーナがうなずいた。
彼女の、伸ばすその掌に先んじて、
正二郎の大きな掌が、明里の掌を包み込んだ。
「大丈夫だ」
「あなた」
「もう、大丈夫だ」正二郎は云った。「もう何も心配することはない。ないからな」
云ってから、彼は窓を見た。
幽かに、格子窓に白みがさしている。
夜明けが……払暁が、近いのだろう。
「壬生へ行こう」
とだけ、彼は云った。