からくりサーカスオリジナルストーリー
「島原傀儡舞〜元治二年・払暁〜」
その36
敷居を蹴って踏み込んだのは、広く薄暗い土間だった。
水甕があり、竈がある。
郷士屋敷である前川邸の勝手口は、馬四頭が並んで通ると云われたほど広く、《あるるかん》の巨体も難なく入る。
背にした裏庭から、大勢の押し掛ける気配がする。
アンジェリーナは前に目をやる。
そこに……
土間を上がった板敷の床材は、長年にわたって磨かれ続けてきたのであろう。鈍く光っている。
正面、廊下を挟んで板戸がある。
戸の奥が、幹部の居室となっていたはずだ。
そこに、板敷の上に、隊士が一人立っていた。
胴鎧。額に鉢金、襷掛け。
例の、だんだら模様の羽織。
大柄な体つきに、正二郎は覚えがあった。
腰に刀がない。
そういえば、大小は、彼が預かったままだ。
そのかわりに左手に無造作に?んだ朱柄の槍が、屋内に不釣り合いに長い。
器用に回旋させると、穂先が正二郎たちを指す。
指してからゆっくり下がって、刺突部が、地面から僅かに浮かせた低い位置で、止まる。
蛇。
……いや、
龍が、一匹の赤い龍が身を伏せている。
天に昇る時を、待っている。
「何してんだ、左之さん」
口を開いたのは藤堂だった。立ちはだかる男に、親しみと、戸惑いをはらんだ口調で、呼びかけた。「邪魔だぜ、通してくれよ」
だが、
原田左之助は、藤堂の呼びかけに応えなかった。
言葉が、通じているのか。躊躇い、その顔を窺う。
原田は彼を一瞥してから、正二郎とアンジェリーナ、そして《あるるかん》に視線を向けた。
「奥さん……」
彼が発したのは低い、小さな声だった。
槍先が、地を這うように、揺らぐ。
龍の頭は低さを保ったまま、向きだけが《あるるかん》に移った。
「……なにも、何もこんな事までしなくたってよォ……」
アンジェリーナの表情に変化を見いだせなかった。
構えも解かず、隙も見せず、言葉一つさえ発さぬ。
「すまんね」かわって、正二郎が応えた。
「左之、通せ」藤堂の語調が強まった。「早くしないと山南さんが……」
「駄目だ、平助」
原田の、造作の大きなの顔が、歪む。「これ以上、屯所は荒らさせねえ」
細い眼が下がり、
歯が剥き出しになると、笑っているとも見える。
だが、それは笑顔ではない。
「左之!」
応えているのか、原田は、唇を弱々しく動かしていた。
「なぜだ、左之!」
藤堂が重ねて問う声だけが響く。
しかし、
正二郎とアンジェリーナ、二人の聴覚にだけ、原田の声が届いていた。
……だって、俺は……
俺は、新選組なんだぜ?
それから原田は、槍を大仰に振り回し、脇に構えた。
龍が、躍る。
その牙先が、はっきりと《あるるかん》へ向いた。
羽織った上衣の袂が、舞う。
「新選組副長助勤、原田左之助」原田の表情に迷いの影は消えた。「参る」
云うなり、槍先を《あるるかん》へ突き上げる。
踏み込みと同時に持ち手を替えて、手元から柄を繰り出したので、槍自体が伸びたように、見えた。
アンジェリーナの掌が開きながら動き、糸が右へ流れた。
黒衣の懸糸傀儡の頭部を貫くかと思えた刹那、その右腕が穂先を振り払った。
聖ジョルジュの剣。
撥ね上げられた長槍を狙ったノコギリ状の刃を、原田は柄を引いて、躱す。
たぐり寄せる穂先を、膂力に任せて振り下ろす。
「!」
内懐めがけて突き進んでいた正二郎が身を翻す。
その肩口をかすめた原田の槍。
首を狙って真横に急旋する。
正二郎は跳躍し、後ろ飛びに避ける。
それを追わずに、原田は穂先を今度は《あるるかん》へ突き出し、牽制した。
アンジェリーナは繰り手を停めた。
三者が、凍り付く。
「……お、おい……何、やってんだよ……」
ただ、かすれた藤堂の声だけが、宙を漂うように響いていた。