からくりサーカスオリジナルストーリー
「島原傀儡舞〜元治二年・払暁〜

 

 その42 

 

 

 アンジェリーナは唇を噛んだ。

 押されている。

《あるるかん》は、原田ひとりに防がれている。

 彼女自身に続く執拗な攻撃で、人形繰りに集中できなかった。

 松原と呼ばれた隊士は柔術の達人らしい。

 刀を持たない丸腰で、彼女をえようと動いてくる。

 守ろうとする夫を、別の侍が狙っていた。

 原田の繰り出す槍。

 その穂先に、注意を奪われた。

 襟首を掴まれた。

 そのまま、太い腕が肩に伸びる。

 景色が傾ぎ、眼前に大地が見えたかと思うと、

 一瞬で、アンジェリーナは組み敷かれていた。

「抑えたぞ!」松原の叫びは歓声に近い。

「アンジェリーナ!」正二郎の声が続く。

「奥さんっ」

 原田さえ、槍を持つ手を止めていた。

 左右の腕を固められていた。

 上体に体重が懸かり、首筋に、男の息づかいを感じた。

 正二郎以外の、男の息づかい。

 全身に嫌悪感が走った。

 腕さえ、自由になれば。

 彼女は意を決した。

 鈍い音が響く。

 二つ。

 それは……彼女が、自ら腕の骨を折る音だった。

「!」

 予想外の行動に松原が躊躇した瞬間、

 アンジェリーナはそのまま、動かぬ両腕を引き伸ばし、松原の腕の間をすり抜けた。

 追おうとしたときには、充分な間合いを確保していた。

 松原は、彼女の顔を見据えた。

 その表情は変わらない。

 両腕の折れた激痛に顔を歪めるでもない。

 白蝋色の美しい顔が、冷たい光を放っていた。

「おっ、おのれぇ……」

 背筋を寒気が走っている。

 松原は、叫んでいた。「化け物ぉっ!」

 斎藤が、彼に目をやった。

 それは……本能的な恐怖に拠る叫び。

 松原の眼は充血し、その光に殺気を孕んでいる。

「ぬおおおおっっっ!」

 もう一度、叫ぶ。

 それは、獣の咆吼だった。

「忠さん、落ち着け」斎藤が云う。

 だが、松原は上体を低く構えたまま、アンジェリーナに向かって突進した。

 アンジェリーナは、座る。

 両肩を勢いよく動かして折れた腕を振り回し、遠心力で両掌から指抜きを外した。

 と同時に、葛籠から、蜘蛛の巣状に折り畳まれた予備の指抜きが飛び出す。

 瞬時に両足指に嵌め込んだ。

 ためらわず、両脚を大きく開く。

 緋色の襦袢から露わになる太股。

 白い素足が、若鮎のように伸び、撥ね上がった。

 右足指を握り込みながら、強く、引き寄せる。

《あるるかん》が体を捻りながら、跳躍した。

「あっ、いかんな」

 と云った斎藤の頭上を越えて、

 そのまま横飛びに、松原の体に当たって弾き飛ばす。

「ぐぅっ……!」

 後背から打撃を受け、松原は転倒した。

 すぐさま、身を翻して立ち上がったのは流石であった。

 だが……そこで、膝が落ちた。

 体重を支えきれなかった。

 脾腹を押さえ、身をかがめ、それでも立ち上がろうともがいている。

「おのれっ、この化け物……!」

 もがくあまりなのか、壊れたように、同じ言葉を繰り返す。

「化け物化け物化け物化け物化け物化け物っ!」

 その眼は……眼だけは狂気に近い光を宿したまま、アンジェリーナを睨み続けていた。

「島田君」

 土方が、そばにいた隊士に声をかけた。「松原君を退げろ」

「へいっ……おい」

 云われて島田が指図し、数名の隊士が倒れる松原に駆け寄った。

 その身を抱え上げたとき、

「大事無いっ」

 松原は、仲間の介護を拒絶した。

 激しく両腕で抵抗し、その眼は、今だアンジェリーナを睨み続けている。「まだだ……まだまだっ!」

「肋が折れてますよ松原さんっ、その体では無理です!」

「……放せぇっ! まだだ、まだだぁっ!」

 それを、島田と呼ばれた隊士が懸命になだめる。

 そのまま手足を押さえつけ、力ずくで奥へ引き下げていった。

「……まだだっ、まだだ! あの化け物をやらせろぉっ!……」

 去り際に、雄叫びが響いた。

「やったな、アンジェリーナ」

 正二郎が云った。

 彼女が両脚で《あるるかん》を操る姿に目を向けた。

 その頬が、蒼い。

(この化け物っっ!)

 彼女に投げかけられた、松原の叫びが脳裏に浮かぶ。

 アンジェリーナに何か言葉をかけようとして、一瞬、逡巡した。

「おっと、私を忘れちゃ困るよ」

 声とともに、

 が閃き、正二郎の左肩に食い込んだ。

 

【次の章を読む】  【目次に戻る】   【メニューに戻る】