からくりサーカスオリジナルストーリー
「島原傀儡舞〜元治二年・払暁〜

 

 その52 

 

 

 伊東甲子太郎は私室へ向かって一人歩いていた。

 庭に立ち尽くす、篠原泰之進を見た。

 あの茂みの中に、山崎丞も見たような気がしたが、既に姿はない。

 妙な男だ。

 それだけを思った。

 

 立ち止まった。

 すでに、長屋門から正二郎たちは去っていた。

 山南敬助は、死んだ。

 記録にはそう残されるだろう。

 だが、生きて新選組を離脱した事実に変わりはない。

 これが、先例になる。

 処断されることはなかった。

 今は、この一事で十分だ。

 伊東は前に眼を戻し、歩き始めた。

 

「伊東先生」

 

 不意の声だった。

 振り返ると、山崎丞がいた。

 この寒さの中、いまだ緋襦袢一枚の姿だった。

「ううっ、寒ぃですねぇ」

 まるで思いを読みとったかのように、彼は云った。

 伊東は応えず、踵を返す。

「あぁそうです、先生」

 声がした、と思うと、すでに真後ろに彼は寄せていた。

 襦袢の袖口から細い腕が伸び、伊東の襟元に差し込まれた。

 抗う間も、なかった。

これ、篠原さんから預かってやしてね」

 すぐ耳元に、囁くような声がしたと思うと、懐の中、心臓の真上に鋼の冷たさを感じた。

 伊東はすぐ理解した。

 拳銃の筒先が、胸に押しつけられている。

「先生!」加納道之助が近づいた。「山崎っ、先生に何を……!」

「すっこんでな、サンピン」

 伊東を抱いた格好で、山崎は、流し目のように視線を向けた。

「うっ……」加納の口から、うめきに近い声が洩れ、言葉を失った。

 加納道之助。

 後に伊東に従って新選組を脱し、油小路の死闘を生き延びて討幕軍に加入、流山で降伏した近藤勇の正体を暴露して斬首に追いやり、新政府に官職を得たこの男が、山崎に睨まれ、たじろいだ。

すいやせんね、脅しちまって」伊東の背中に、冷え切った山崎の体の感触が伝わってきた。「まるであたしが、伊東先生を撃ち殺すみてぇに云やがるんで」

 撃たないのか。とは、訊かなかった。

 間をおかず、伊東の頬に山崎が顔を寄せた。

「山崎く……」

あぁ、あったけぇ

 冷たい肌が、触れた。

 胸にあてられた銃口もまた、冷たい。

 吐息を感じながら、伊東は沈黙を保っていた。

 何を云っても無駄なだけだ。

「撃ち殺せるわきゃねぇでしょう」案の定、山崎は一人で語っていた。「何しろ先生は新選組に……いえ、天下にとって大切な御方です。そのお知恵と大望とは、あたしみてぇな凡人にゃ知りようもねェし、知りてぇとも思いやせん」

 肯定も否定もしない。伊東は黙って聞いていた。

 山崎は続ける。「ただ、あの夫婦に手を出したのはよくねぇ」

「えっ」思わず声を上げた。

「ご炯眼の先生ならおわかりでしょう? あたしらとは、背負ってる修羅が違うんすよ」

「……」

「ま、お二人を手駒にしようなんざ考えねぇこってす。
今日みてぇに血みどろになりながらも……」

 山崎の左掌が這うように伊東の体を滑った。

 そして、首元に触れた。

「最後にゃ、喉笛をかっ切られやすぜ」

 云い終わると同時に頬が離れ、掌が引き抜かれた。

 懐中に残された拳銃が、まだ重い。

「ま、くれぐれもお気を付けてくだせぇ」山崎は伊東の緩んだ襟元を整え、そう続けた。「先生の筋書き芝居、幕を引くまで観せてもらいてぇからね」

「どういう意味かね」

 伊東はようやく口を開いた。

「そういう意味でさ」

 応えを聞くなり、彼は振り返った。

 しかし、既に山崎はそこにいなかった。

 

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